エバーアフター







 多分、その場にいたすべての者の嗅覚は麻痺していた。
 そうでなければ、とてもこの場に留まることなどできなかったはずだ。
 ほどんと崩れた階段には硝酸を浴びた死体が折り重なっている。溶けた皮膚はめくれ、肉は焼けただれ、床は赤く染まった。バリケードの凄惨さは筆舌に尽くし難い。命あるものはすべて殺され、形あるものはすべて壊された。そこに生はなかった。どこにも希望は見出せなかった。未来につながるものなど、何ひとつ。
 死の渦巻く場所は、生き残った人間にある特殊な本能を目覚めさせる。
 本能。
 そこになにか生を感じさせるものがあるとすれば、そうした本能だけだった。どういった本能か? あらゆる本能だ。本能に支配された勝者は、敗者から略奪の限りを尽くした。悪が二度と復活できないよう、徹底的に殲滅するのだ。あらゆる財を奪い、あらゆる矜持をことごとく折る。それは勝者に許された権利であり、義務ですらある。血塗られた長い歴史の中で脈々と受け継がれた戦いの本能だ。
 つまり、ほとんど命の尽きかけた暴徒の首領は、国民兵の手によって、嬲り者にされているのだった。
 彼らは、もっとも残酷な方法で悪を引き裂くのが適当だと判断した。いまだくすぶる反逆の火種への生贄として。
 銃弾は心臓には達していなかった。彼に意識があったなら、あの深く厳しいまなざしのせいで、誰も手出しなどできなかっただろう。けれど意識を失った青年は、ただその四肢からあたたかい血潮をしたたらせるばかり。深く閉じられた瞼、血の気の引いた頬は、ぞっとするほど美しかった。壁に釘付けにされた体を捕らえた兵士は思わず喉を鳴らした。おそらく、この部屋に渦巻く死臭が彼を狂わせたのだ。
 手枷の必要はなかった。ただ溢れる血が不快だったので、彼らは暴徒の両手を縛りあげた。より惨い方法で抹殺するためにわざわざ止血したのだから、滑稽な話だ。哀れな青年の衣服の胸元は引き千切られ、下肢の着物は剥ぎ取られた。白磁のなめらかな首元に血が滲むまで噛みつき、吸い、裸の胸に鞭を打つ。蚯蚓腫れがいくつもはい回り、ちいさな胸の先は哀れなほど赤く腫れあがる。下肢は血と白いものが混じって、おぞましい有様だった。
 激痛は青年の意識を強制的に目覚めさせた。彼は身に起きていることを理解できずに暴れかけたが、完全に体力と自由を奪われているのに気がついた。朦朧とするなか、おぼろげながら身に起きていることを悟った彼は、すぐに抵抗をやめた。
 暴徒の目覚めに気がついた彼らのあいだには、さっと動揺がはしった。けれど、抵抗を諦めた暴徒の様子に、すぐに平静を取り戻した。いや、違う。正確に記すなら、彼らは興奮した。
 生理的な嫌悪と痛みから、生贄の表情はゆがんだ。天使の顔のゆがむ様は劣情を煽る。連中はその美しい大理石に満足し、彼が自由へ捧げた純潔を踏みにじった。行為は決して愛情からくるものではなく、ひたすら搾取と暴力だった。傷つき血が流れるのにも構わず、こじ開け、何度も抉り、浴びせかける。
 部屋はひどく生臭かった。血の匂いも交じっている。連中がつらぬくたびに、アンジョルラスは弱弱しくうめいた。内臓まで押し込められると、吐き気を催しえづく。けれど胃には吐くものなど入っていない。繋がれた箇所からは、誰のものともつかない精液があふれ、だらだら糸を引いた。立て続けに三人目の種がはじけたころ、透きとおるしずくを宿したあの瞳は光を失い、もはや何も映していなかった。

 グランテールが目を覚ましたのは、最後の一人がアンジョルラスに馬乗りになったときだ。最初に目に入ったのは、力を失いゆれる白い脚だった。 目の前に広がる光景と、自らの置かれた状況がわからずにいたが、アンジョルラスのうめき声ですべてを把握する。
 そのとき、グランテールの心がどんなふうに引き裂かれたか、解る者はいないだろう。敬愛する、そして最後に手を取ってほほ笑んだ天使は、翼をもがれて荒野に叩きつけられ、惨すぎる仕打ちを受けているのだ。今すぐに掴みかかり殺してやりたい衝動が駆け巡ったが、撃たれた腕も足も上がらない。彼は神経を損傷していたのだ。

「……やめろ」

 ふるえる声を絞り出すと、兵士たちはすぐに気がついた。そして這い蹲る邪魔者に躊躇いなく銃口を向ける。

「やめろ、この、クズども」

「まだ息があったのか」

「死に損ないめ。楽にしてやろう」

 グランテールの眉間に銃口があたった。だがその冷たい感触も気にならなかった。ただ、あの深くきらめく瞳に光が宿らないことに絶望し叫んだ。

「彼から離れろ! 彼を離せ、ああ、なんてことを!」

 声が悲壮にかすれても、構わずに続けた。

「あのまっすぐな精神の持ち主に、なぜこんなひどい仕打ちを! 彼がどんなに美しいか知らないのか? 離せ! アンジョルラス!」

 名前を呼ばれて、それまで虚ろだったアンジョルラスがぴくりと反応した。視線だけがゆっくり宙をさまよい、グランテールを探し求める。

「アンジョルラス!」

 グランテールは動かぬ手を必死に伸ばす。アンジョルラスは呼び声を頼りに、ついにグランテールを見つけた。深く傷ついたふたつのまなざしが交差する。その瞬間、どんな目にあっても無感動だった瞳は悲しそうに曇った。気がふれてしまいそうだった。いっそ、そのほうが楽だった。

「お前は、この男を愛しているのか?」

 引き金が引かれる代わりに浴びせられたのは、そんな言葉だった。

「そいつは好都合だ。よく見てその目に焼き付けるが良い、愛する男が蹂躙される様を」

 粘膜が擦れて湿った音がこぼれ、連中は哂った。最後の一人は白い内腿を乱暴に開き、断りもなく一気に穿った。ひび割れてしまった唇から、細く悲鳴がこぼれる。

「やめろ! 彼を汚すな!」

「愛する男が汚されるのはどんな気分だ? お前も彼を抱いたことがあるのだろう」

「……侮辱するな。彼にこんな真似をしたいと思ったことなど、ただの一度もない!」

「本当に? 本当にないのか? こうして、この美しい彼を、そう思ったことはないのか?」

「あるわけがない! 彼は俺の尊敬の的だ。お前たちのような下種なものと一緒にするな」

「せいぜいそう言っていろ。……ああ、暴徒の首領よ、お前の身体は天使であり、悪魔のようだ。とても具合がいい……」

 凌辱しながら男は愉快そうだった。ただの暴力なのに、情婦にするように耳元でささやくのだ。

「俺を殺せ、いっそ殺してくれ! もう耐えられない!」

 グランテールはわめいたが、聞き入れられるはずがなかった。銃口はすでに退いていた。
 華奢な体は骨の軋む音がするほど折りたたまれ、力なくゆれる。終焉が近づくと、男は白い体をめちゃくちゃにゆさぶった。苦しそうな呻きと、床の軋み、悍ましい息遣い、下卑た哂いが部屋を満たす。やがて男は痙攣し、ゆっくり体を離した。追いすがるように見つめると、傷ついたふたりのまなざしが絡んだ。おそらく、グランテールは絶望的な目をしていたのだろう。地獄を見ているのはアンジョルラスなのに、彼はほほえみかけたのだ。けれど、失敗した。
 白皙に一筋だけ涙が流れた。




 略奪者たちは身支度を整えた後、最後に二人の体を蹴り飛ばして立ち去った。その場で息の根を止めなかったのは、じっくり苦しませて殺すつもりなのか、それとも弾薬を充填しに行ったのか、見当もつかない。部屋にはひどい死臭と絶望しか残っていなかった。
 声もなく涙をこぼすグランテールの耳に、かすれた声が響く。

「グランテール」

 上手く息ができないらしく、ひゅうひゅう肺が鳴っている。それでも声は天使の響きだった。重い瞼を開くと、アンジョルラスがふるえる手を伸ばしている。麻痺した半身を叱咤しながら、グランテールは床を這った。床に滴る血液で手が滑って、うまく前に進めない。それでも何とかにじり寄り、差し出された手に応えるように腕を伸ばす。血にまみれ、ほとんど自由の利かない手に、アンジョルラスが弱弱しく、だが確かな力で手をかさねた。

「アンジョルラス、すまない。俺が非力なせいで、君をこんなひどい目に……何てことだ」

「君のせいじゃない。それに、こんなことは何でもない事だ」

 アンジョルラスは初めて見せる優しいなまざしでグランテールをみつめて、今度こそ美しくほほえんだ。身も心も引き裂かれたはずなのに、彼の精神はさらに増して美しかった。その目は穢れを知らず、グランテールを映してまた深くきらめいた。
 それまでグランテールが目にしてきた何よりも、美しく清らかだった。純潔とは、彼の精神がそうさせるのである。誰が略奪しようと、彼自身の中の純潔さを奪うことはできないのだ。

「グランテール、泣かないでくれ」

 ささやく声はひどくかすれていた。そして言葉が終わらぬうちに咳こんだ。

「こんなこと、何でもないさ」

 大丈夫だと繰りかえし、アンジョルラスはグランテールのてのひらをそっと、ゆっくり撫でた。

「君がいてくれてよかった。だが、僕は今、ひどい恰好をしているだろう。……不快に思うなら、すまない」

「君は美しいよ。君の精神は、何があっても美しい。心から尊敬している……そして、愛しているんだ」

 アンジョルラスが再び咳こむ。ごぼっと血を吐く嫌な音がする。終りが近いのは明白だった。

「グランテール。君は笑うだろうが、僕は口接けさえしたことがないんだ。だから君に、ひとつだけ頼みがある」

「……何でもするよ。いつもそう言ってるだろう?」

「一度でいいから、頬に口接けをくれないか」

 グランテールは這いずって彼の血にまみれた頬に唇を寄せた。そして少しだけためらってから、花びらみたいな唇にも、そっと触れるだけの口接けをした。
 彼らは三たび、手を握る。
 外がまた騒がしくなる気配がする。憲兵どもが戻ってきたのだろう。

「ずっと手をつないでいよう」

 グランテールがささやいた。

「ああ。ずっと」

 アンジョルラスは頷いた。
 それきり、口をきく者はなかった。






ever after.







(2013.05.09)

出来心です。
本当に申し訳ありませんでした。
超「n番煎じ」感があるのと、じゃっかんエポちゃんの台詞をパクったカンジになって、非常に申し訳ない気持ちでいっぱい。

どんなに辱めを受けようと、変わらず純潔でありつづけるEさん。
そしてそんな彼をありのまままるごと愛し続けられるRさん。
……っていう夢を見たかっただけです。