一度のすれちがいが何をもたらすか


アパルトマンは、家賃のわりに悪くなかった。サン・ミシェル広場からほど近く、人通りもそこそこで、うるさすぎず、静かすぎず、ちょうどいい通りに建っていた。下の戸口の建てつけがよくないこと、階段が軋んで音をたてること、この部屋だけ扉に継ぎが当っていることを除けば、ほとんど彼の思うとおりの理想的な部屋になった。
その部屋から、あちこちの料理店をめぐり、トランプやドミノを楽しみ、ばくちを打ったりした。そして、ときどきは大学にもかよった。部屋とは寝るための巣であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。軋む階段など、ほとんど睡眠妨害にはならない。戸口の建てつけだって、急いでいるときは別として、とくに難をつけるべき問題ではなかった。女を連れこむにはすこし手狭だったけれど、ベッドさえあれば、何とかなるものだ。
「不満を挙げればキリがないさ。俺のせまっくるしい部屋よりも、人生って名の欠陥住宅について、神様とやらに不満を申し立てたいもんだね」
よく酒場の隅っこで、そういったぐちを漏らしては葡萄酒の壜をつついていた。
酒場に行っても、喫煙店に行っても、大学の講義室でも、彼はどこにもなじめなかった。まわりの連中とは、決定的な何かが違っていた。皆が興奮していても、彼だけがさめていた。熱中のなかで散漫だった。なじめなくとも、居心地が悪いわけではない。けれど、彼の心の渇きは一向にうるおわなかった。もちろん、彼の懐疑家という性質のためだ。人生とは、不満と欠陥が折り重なったものであると確信していたし、そんな人生にすっかり飽いていた。だから、失業者のあふれる広場も、見ぬふりを決めこむ金持ちの四輪馬車にも、街角の不穏なビラにも、うんざりしていた。つまりそれが、隣の喫茶室に寄りつかなかった原因だった。

キャフェのとなりに間借りをはじめて半年ほど、ここに立ち寄らなかったのには、一応、理由があった。
すみかを定めた日、隣にキャフェがあるのには気がついていた。これなら、朝食にしろ、夕食にしろ、食べるものにはこまらない。だからここを行きつけの店にしようと思ったのだ。けれど、裏の窓から見下ろした景色に、その考えは黒く塗りつぶされた。入口側からはわからないが、実はこの店にはかなりの奥行きがあって、裏通りまでぶち抜きになっていた。男がひとり、裏の窓から窮屈そうに背を丸めて這い出すのを見たのだ。男はきょろきょろ周りをうかがうと、梯子を降りる。そして、グレー小路をそそくさと早足に立ち去って行った。
彼にはすぐにぴんときた。このキャフェは、結社の集会場になっているのだ。政治、革命、王朝、権利。こういう話題が混じった珈琲は、いったいどんな香りになるだろう? きっとひどいにきまっていた。そういうわけで、彼にとってこのキャフェは、隣人ながらまったくの他人だった。彼がミュザンの扉をくぐるまで、半年ほどが必要だった。



ざわめきが螽斯の声を思わせたので、グランテールはまぶたを閉じた。耳の奥にわんわんと反響している。時おり「ドミノ」とか、「教育的」とかの単語がまじった。彼はすこしだけ唇の端をゆがめ、うすく苦笑した。
窓硝子から西日がさし、酒壜のにぶく透けた影をテーブルに落とす。硝子のゆがみがひどいので、映った影の壜の先がひしゃげたようになった。緑がかった影を見つめながら、耳ではぼんやり喧噪を拾う。
この席に座るようになったのは、ほんのひと月前かそこらの話だ。ようやく、あまり悪くないと思いはじめていた。キャフェの奥の部屋は、想像していたよりも快適な場所だったのだ。壁にかかった古地図や、柱に彫られた革命歌の詩以外は、ありふれた溜まり場だ。ドミノもトランプも、ばくちを打つ連中もある。窓際のふたりは、ベッドサイドの話に夢中だし、陽気なシャンソンも聞こえてくる。
この男も、皆と同じく無為に時間をむさぼった。ただ、同じように見えても、ほかの連中とはやっぱりどこか違っているのだった。この部屋で行われる例の「特別教育」も受けたのだが、打てども響かずだった。誰かがジャン・ジャックの話を持ち出しても、奴隷の話を持ち出してみても、知らない顔で口笛を鳴らした。彼はここでも、陳列棚にひとつだけ紛れた贋作の器みたいだった。
廊下の奥から、ひかえめな足音が鼓膜に届いた。金曜日の正午、規則正しい足音。アンジョルラスに違いない。
アンジョルラスのことは、この小さな結社の中心であること以外、詳しくは知らない。
青年はいつも、空いている椅子に適当に腰を落ち着ける。書き物をしたり、静かに議論に耳を傾けたりしている。彼の澄ました美しい横顔は、整い過ぎて、無機物みたいだ。
けれど、このひと月のあいだに一度だけ、彼がその身を奮い立たせて理論を説くのを見たことがある。冷静で、声色も落ち着き払い、説得力に満ちていた。しかし瞳の色はさらに深まり、同時に強くつよく光をたたえ、瞬きするたび光の粒子がはじけて火花が散った。青年は戦士のようだった。彼は語りながら、目に見えぬ何かとひたすら戦っているようだった。そのとき、彼は確かに生きていた。脈動が聞こえてくるほどだったのに。
今日、彼は読みかけの本に没頭することにしたらしい。手近の椅子にゆったり腰をかけて、長い脚を持て余し気味に組んでいる。長い指も伏せがちの瞼も、陽に透ける睫毛の先も、つくり物めいていた



はじめて彼を見たときのことは、よく覚えている。
覚える気なんてなかったが、焼印みたいに記憶に残ってしまったのだ。
あの日、花柄のスカートを翻した娘が、キャフェ・ミュザンに入っていったので、つい扉を開いた。彼女のきれいな髪とスカートから覗いた白い脚に惹かれたのもあったが、本当は、このキャフェの内情が気になっていたのだと思う。その証拠に、店に入るなり連れ合いの男に体を寄せた彼女の顔は、ちっとも思い出せない。
取り立てるところもない、ただの喫茶室だった。危惧していた主義だのなんだのといった、パリじゅうの喫茶室にあふれている話題で声を荒げる者は見当たらない。部屋の奥に隠されるように続く廊下と、テーブルに刻まれた『自由と解放を!』という文字列に、辛うじて影が透けて見えるだけだ。
面白いこともないので、そのまま部屋に戻り、二度とこの店に足を運ばないはずだった。けれど、世の中にはなるべくして起こる予定調和のような出来事がある。彼が腰かけた席には、そういう歯車が仕込まれていた。
背中合わせに座っていたのは、クールフェラック、バオレルというふたり組だった。ふたりはグランテールのテーブルに置かれた葡萄酒に興味を示し、声をかけてきた。若い連中のいいところは、気軽なことだ。三人はすぐに共に酒を囲み、中身のない当たり障りのない話に興じた。天気の話、この店の名物料理について、それから最近みつけた楽しい遊びのことなど。
そのうち、酒の話になり、飲み比べの話になった。俺より酒の強い男は見たことがないと言ったら、ふたりが乗ってきたのだ。彼らも酒が強いと自称していた。
だれが一番強いのか決めようという話になり、飲み比べになった。三本目の壜の底がつくと、まずクールフェラックが酩酊気味になった。さらにコップを五杯開けたあたりで、バオレルもテーブルに伏せて動かなくなった。
負けたふたりが勘定を持つことになっていたので、グランテールはにんまり笑って店を出た。彼もかなりの量を飲んでいたので、壁や扉に何度かぶつかりかける。けれど酔っ払いはちっとも気にせず、上機嫌だった。このあやしげな店の葡萄酒が、意外にも好みの味だったのだ。それに、飲み比べできるような、話のわかる連中もいるようだし。また来てみてもいいかもしれない。そう思いながら、戸口で夜空を眺めた。
春は近かったが、その晩はまだ冷え込んでいた。夜風にひとつ身震いする。彼は部屋に帰ろうとしたが、アルコールのせいで前後が分からず、うっかり方向を間違えた。それにも気づかず、澄んだ冬の空にオリオンが輝くのを眺めながら、千鳥足は上機嫌だった。
誰かが歩いてくるのに気がついて、空に貼りつけていた視線を戻す。むこうから、背の高い細身の男が歩いてくる。装飾のない上品なフロックコート。そして、月と星に控え目に輝く金の髪が目を引いた。
長い脚は迷いなく、まっすぐこちらに向かってくる。きっとこちらに気が付いているはずだったが、グランテールのほうを見ることもない。
店の前でふたりはすれ違った。窓からもれた光が横顔を柔らかく照らすと、グランテールは息を飲んだ。
まだ若い、多分、男だった。いや、天使かもしれなかった。ゆれる金の髪、光をたたえた青い虹彩と長い睫。あかく色づいた唇と、細く白い喉。華奢なつくりの耳。
すれ違う一歩手前で、青年がこちらを見た気がした。硝子細工の瞳は、不純物がなく透きとおって、視線が交わるだけで心の奥まで読み取られそうだ。
視線が交わったのは、気のせいかと思われるほど一瞬の出来事だった。青年はこちらに注意を払うことなく、先ほどまでグランテールが立っていた戸口に向かい、扉の中に吸い込まれていった。店の奥の部屋に用事があるのに違いないと直感で感じ取る。自分には関係のない人種だろう。あんなに美しく、理想や主義に篤そうで、反吐が出る存在であるはずだった。
けれど、グランテールはその時、青年がどんな声を出すのか、聞いてみたいと思ったのだ。どんなふうに笑って、怒って、高い理想の話をするのか知りたい。
美しい目をしていた。あの目には何が映っているんだろう。誰もが毎日眺めるパリの街は、彼の水晶体を通したら、どんな世界に見えるだろう。
その答えは、まだ当分わかりそうになかった。



アンジョルラスの話はよく耳に入ってくる。南方の出身だとか、政治の他にいろいろと勉強しているとか、一人でアパルトマンを借りているらしいとか。まわりにすこし訊ねただけで、ぽろぽろ情報が手に入った。兄弟はなく、金銭的にこまっているふうでもない。だが質素倹約を旨としているのか、遊び事にはほとんど付き合わない。衣服や持ち物はそれなりのものを身に着けているが、買い替えることは少ない。だがいつでも手入れをして、シャツのボタンが取れているところは誰も見たことがないという。煙草もばくちもせず、酒もグランテールの四分の一ほどしか口にしない。おまけに、女を知らない。その話を聞かされたとき、葡萄酒が逆流するところだった。あの美貌で女がいないなど、盲目か、よほどの莫迦か、女に興味を持てないかだ。どんなに熱心で健全な若者だって、女を抱きたくなるに決まっている。むしろ、健全だからこそ欲求があふれるのだ。「英雄色を好む」と歴史も証明している。なのにこの男ときたら、結社の頭でありながら女には眉ひとつ動かさぬという。
莫迦な。グランテールははじめ、その話を本気にしなかった。誰かが堅物気味の男をからかって言いだしたのに決まっている。自分より器量もよく利発な男が鼻持ちならない連中がよくやりそうな、くだらない冗談だと。
または、結社の特別な存在として印象づけたいという思惑か。顔立ちは女性的ですらあり、姿かたちは無性の天使を思わせるものがある。だから、文字通り天使だの、メシアだののように、純潔さを謳って神聖化しようとしているのだろうと。
けれど、この数日間観察してみて、どうやらそれが冗談でも脚色でもないことがわかってきた。
こんな場だから、いつも話題になる恋愛の話にも、夜の事情の話にも、彼はいっさい口を挟まなかった。ただ黙って本を読むか、誰かと他の話をしているのだ。
遊び人たちは、アンジョルラスの前で玄人の話を出さないように気をつけているようだった。「彼は堅物だからね」そう言ってバオレルは苦笑していた。その表情が、純潔を莫迦にするふうではなかったのが記憶に引っかかっていた。
勤勉で、自他ともに厳しく、禁欲的で、質素倹約、そのうえ、誰もがふりむくほどの美貌。あまりにできすぎている。
酒飲みは、しばらく前から思考もアルコールにやられていたので、この作り物めいた男が気にかかって仕方なかった。正直なところ、気に食わないとすら思った。気に食わないのに、どうしようもなく目を奪われる。ただ嫌いというのとはちがう、正体の知れないこの感情。それに名前を付けられないままでいる。
いつか読んだ記憶があったが、炎というのは、高音ほど青く輝くのだそうだ。きっと彼はそういう性質を持っているのだろう。澄みきった、いっそ氷の色をまとった灼熱。まわりの温度から逸脱した高音の炎。
あいにく、グランテールの心に炎はなかったし、この先も火が灯ることはないと確信していた。だから、一生かけても彼を理解することはできないだろうと漠然と悟った。
ただひとつだけ、この空間にいて、彼と自分だけが異質だということに気がついた小結社の中心である彼は、不思議なことに、仲間の中で一人だけ別の空間にいるような気配を纏っているのだ。
氷に見えるほどの灼熱と、赤く澱んで冷えきった灰。二人はほとんど対極にあった。けれど、この空間でのあり方に、通じるものがあった。それは一人ぼっちの懐疑家に、奇妙な連帯感を与えたのだった。



声がきこえてきたので、ゆっくり目をあけた。思った通り、視線の先にブロンドの青年が話しはじめたところだった。
この男がいるだけで、雑音もちがった音色に聞こえてくる。静かで確かな興奮みたいなものが、さざ波となって部屋に満ちてゆくのを感じるのだ。
肘をつき、心地よい午後の日差しに再びまどろむ。ざわめきのなか、時おりアンジョルラスの声が混じる。静かに誰かと言葉を交わしたかと思えば、なにかに反論するきつい口調にもなる。何を話しているのか知らないし、聞いても居心地の悪くなる内容に決まっている。けれど、透き通った声を拾うたび、瞼のむこう側に、不思議な景色が見える気がするのだ。
それはたぶん、瞼を流れる血の色が陽に透けて見えているだけだったが、懐疑家に淡い夢を観させるくらいには、美しい風景だった。
「ユートピア」というのが、こんな眺めだったらどんなにいいだろう。
彼はそんなことを取り留めなく思いながら、やがて意識を夢に溶かした。