モンデトゥール通りの袋小路 ついてくるなと言い捨てて、喫煙店を後にした。 アンジョルラスは、端くれ芸術家たちを見事に説得してみせた。彼の声は店に充満した煙の渦を、まっすぐ切り裂いてみせた。いつしか火はすべて消え、吸いかけのまま放ったらかしにされた煙草の灰が、灰皿にうず高く積もっていった。 激情が募れば募るほど、頭の芯が冷える類の人間がいるが、アンジョルラスはまさにそういう人間のひとりだった。酒樽が声を張り上げるたび、パンくずがテーブルからこぼれ落ちるごとに、頭の芯が冷えて、煙だらけの喫煙店の中でも視界がはっきりするのを感じていた。きっと澄みわたっていたのは、視界ではなくて、彼の思考だったのだろう。店に顔を見知っている連中がいたのは幸いだった。「ああ、君か」と若い石工見習いが気づいたので、皆アンジョルラスに注目した。それで難なく連中の説得にかかることができたのだった。感情がすっかり消えた頭は冴えていて、言葉運びひとつとっても、計算をつくされた芸術みたいだった。 若く、思考の幼い芸術家たちを説得しているあいだ、アンジョルラスは酒樽に視線を遣らなかった。ただの一度も。なにか言いたそうな眼差しには気がついていたものの、その一切を無視して切り捨てた。彼が唯一冷静でなかったのは、この一点のみだった。 握手を交わし、抱擁を交わし、「僕たちは仲間だ」と高らかに宣言して友情と熱情を煽り、名残惜しむ彼らに別れを告げて店を出る。がさつな足音が追いかけてきたが、決して振り返らない。 思わぬところで時間を取ってしまった。これから、ふくべ党の連中のところまで足を伸ばす必要があるのに。 「待ってくれよアンジョルラス」 叫ぶ声は上擦った。だがアンジョルラスはやはり答えなかった。 さきほどから、もうずっとこの繰り返しだ。視界の隅には、目立つ赤いチョッキがちらちらしている。放っておくと、やつはこのままどこまでもついてくるように思われた。ふくべ党の連中に、この非協力的な懐疑家の姿は見られたくない。いったい何度目かわからない「待ってくれ」の後、彼は腹を決めて立ち止まった。 「帰りたまえ。そして、二度と顔を見せるな」 厳しく言い放つ。「もう一度だけ、念を押しておこう。僕たちのことに、口を出さないでくれ」 一語ずつ区切るようにはっきり言い渡した。 酒飲みはこまったように立ち尽くして、伸ばしかけた手をひっこめた。さすがに今度ばかりは「失敬だな」なんて言えなかったようだった。 だが、翌日、例の集会所に顔を出すと、すでにそこに先客があって、それはクールフェラックとグランテールだった。 何をしているんだ、と思わず言葉が出かかったのを、かろうじて堪えた。グランテールは物言いたげな目を寄越してくる。この場にいるのが我慢ならず、アンジョルラスは珍しく足早にキャフェを去った。 昨晩からずっと、服に染みついた煙草の匂いが掠めるたびに、酒樽の声が頭の奥でわめき散らしていた。それが不愉快でならず、今までにないほど胸の奥が澱んで濁った。どうして心がこんなに黒く染まるのか、自分でもわからない。ただ不快な粘着質の塊が胸の奥に詰まっているのだ。 酒樽がまともにABCの活動に協力するはずがないと、疾うの昔に知っていた。だから、彼をメーヌ城門に向かわせた時点で、失敗の可能性を思い描いていたはずだ。ただ当てが外れただけだ。それも、ほとんど期待していない当てだった。なのに、どうしてこんなに苛立つのだろう。 『大丈夫だよ』 低い声音はずっと鼓膜に残っている。息が耳朶を掠めるほどの距離でささやかれた言葉。きっと、その言葉に嘘はないと思ってしまったのだ。 あんなに真摯な声で、アンジョルラスの鼓膜を、心を揺さぶったのだから。 敷石のあいだには、まだ雨水が残っていた。雨あがりのパリは、世辞にも美しいとは言えない。昼間から夕方まで続いた雨で、裏通りの道はぬかるみ、酷い有様だった。街はまだ厚い雲に覆われて、午後八時の鐘が鳴る前なのに、あたりはうす暗く沈んでいる。 モンデトゥール通りは、家々が入り組んでぎっしり積み重なり、折れ曲がったり行き詰ったりしながら、迷路のように細くくねくねと続いている。足に優しくないその道を、慣れた足取りですり抜ける。今夜はABCの会員のうち、職人たちの様子を見にゆく手はずになっていたのだ。 道すがら、ある居酒屋にさしかかった。なんてことないただの酒場で、コラントのような小声で話すべき話題の乏しい、陽気でのんきな店だった。 ここで足を止める予定はなかったのに、彼が立ち止まったのは、店から、いつもの笑い声ではなく、切羽詰まったさめき声が聞こえてきたからだ。それも、耳に覚えのある声が。 薄っぺらな扉では防ぎきれずに、わめき声は道ばたに盛大にぶちまけられていた。ひと騒動起こっているらしい。なにかが倒れる音や、食器の落ちる音、「よそでやっとくれ!」と叫ぶ金切り声が次々に雪崩れてくる。アンジョルラスは躊躇せず、店に飛びこんだ。 熱気の漂う店内では、テーブルは乱れ、椅子が引っくり返っていた。あわてる小太りの女中と、煩さに文句をつけ野次を飛ばす酔っ払いども。テーブルに倒れた酒瓶から葡萄酒がこぼれて、床にしたたり、煉瓦を汚した。 部屋の真ん中に、知った顔の男がどっかり腰を据えていた。ひどい赤ら顔で、血走った目の焦点はうまく合っていないようだ。酒がないと文句をつけ、テーブルを拳で叩く。食器が音を立て、となりの男がうるさいと罵った。 アンジョルラスは呆れた。 彼は酒場に似合わないほどしゃんと背筋を伸ばし、女中と酔っ払いの間に立ちはだかる。 「大文字R!」 厳しい声で呼びかけたが、ちっとも気がつかない。前のめりになり、転がる壜に懲りずに手を伸ばしている。指が届く前に、さっと壜を取り上げた。重たい眼差しがゆっくり上向き、かろうじてアンジョルラスの顔のあたりで焦点を結んだ。 「大文字R。君はここで何しているんだ」 突然の詰問に、彼はきょとんと眼を瞬かせた。 「おれは、ゆめれも見れいるんから?」 「夢じゃない。酔っ払いめ、飲み過ぎもいいところだ。もう帰りたまえ」 「……ア、ンジョー…ラ、ス?」 ちっとも呂律がまわっていなかった。起きているときは常時酔っているような男だったが、ここまでひどいのは初めて見たように思う。こいつを相手に話をしたところで、説得できそうになかった。アンジョルラスは女中に詫びて、少々色をつけた酒代を握らせると、夢うつつの酔っ払いを肩に担いで店を後にした。 酔漢のもはや平衡感覚を失って、足元が覚束かない。酔っ払いに付き合うのは御免だったけれど、放っておくわけにもいかない。彼がミュザンの隣に部屋を借りているのは知っていたし、ここからサン・ミシェル広場までの一番近い道順も心得ている。けれど、そこまで運ぶには、少々相手の酔いが深すぎた。かろうじて意識はあるが、自我など残っていない。おそらく、明日の昼、やつが目を覚ましたら、記憶も全部失っているのに違いない。 仕方がないので、ここからほど近いコラント酒場に連れて行くことにした。もともと目的地だったのだから都合がいい。 「コラントまで、もう少し辛抱しろ」 声をかけたが、どこまで聞こえているのかわからなかった。店から逃げるように連れ出してきたが、多少高くついたとしても、ほかの飲み物でも貰えばよかった。アンジョルラスはすこし後悔した。なにしろ、酔っ払いの面倒など見たことがないので。 夜風が出てきて、アンジョルラスの頬をくすぐった。見上げれば、わずかな雲の切れ間から星がのぞいている。雨あがりの夜空は不純物がなくなって、いつもより美しく見える。星空がいくぶんか近い気がした。 そのとき突然、後ろから抱えこまれ、アンジョルラスは驚いて固まった。 言葉を紡ぐいとまもなく、腰に違和感を覚えて息をつめる。熱のこもった手のひらが、腰骨あたりをしっかり掴んでいるのだ。身を捩れば、腰に這わされた手が、素早く反対側の腰に回され、身動きを許さぬようにしっかり抱えこまれる。背中が熱い。 「何をする!」 声は驚きのせいで少し掠れた。問いかけと同時に、項に荒い吐息がかかる。酒精が鼻をついて、思わず眉をしかめた。首筋にあたたかく濡れたものが押しつけられて、肩が竦む。自分では気がつかなかったが、小さく悲鳴を上げていた。それは紛れもなく、酔漢の濡れた唇と舌だった。細い首筋を確かめるように、つっと首筋を舌で逆撫でされ、肌が粟立った。 酔っぱらって、どこかの女と間違えているのだ。気づいて頭に血がのぼる。どうしようもなく腹が立った。こいつはきっと今までだって、こうやって行きずりの女と寝たりしているわけだ。そのくせ、嫌だというのにアンジョルラスに向かって、あてつけみたいに言うのだ。『君はなんて美しいんだ』と。 こんなに濁った感情は初めてだった。グランテールは縋るように背を抱えている。熱っぽく潤んだ吐息が聞こえる。彼の網膜には、アンジョルラスを通して見知らぬ誰かが刻まれている。そう思うとたまらなかった。 「何をしてる! やめないか!」 声を荒げ、抵抗する。泥酔した人間相手なので簡単に振り払えると思っていたが、計算違いだったらしい。腕の締めつけはますますきつくなり、焦りを覚えた。 「何してるって? ……さあね」 泥酔した懐疑家は苦々しく吐き捨てた。思わぬ声色に言葉が継げなくなる。グランテールはアンジョルラスの輪郭をなぞる手を止めた。首筋をなぶっていた舌も。ただぎゅっと、しがみつくように抱きしめられる。背中に心音が直接響いた。激しい脈動に息が詰まる。 「なぜ、こんなことをするんだ」 「……俺にだって、わからないよ」 掠れた声は疲れきっており、泣いているようにも聞こえた。彼が女と勘違いしているわけではないことを、ようやく悟る。 やがて、酒飲みがそっと体を離した。回した腕を、最後に名残惜しむように解放すると、俯いたまま一言「ごめん」と呟いた。 「待て。……まだ酔っぱらってるだろう、送っていく」 声をかけたが、グランテールは寂しそうに首を振った。 「良いんだ。ひとりで帰れる。……君も、わかっただろう。俺がどうしたいのかってことくらい」 告げられた言葉の意味を捕らえかねて、口を噤む。 「軽蔑するなら、そうしてくれよ。でも、君をただ純粋に尊敬している、その気持ちだけは、今も昔もずっと変わらない。それだけ、信じてくれたら嬉しいよ」 淋しい笑顔だった。 月あかりが夜を照らしている。敷石は光をはじいて、通りをほのかに淡くけぶらせている。静かな通りだった。店もなく、萎れた空き家が建っていた。寂しい通りだった。 歩き始めた背中は、のろのろと影を引きずって、ゆっくり遠ざかる。すぐに追いつけそうだったが、足は動かなかった。 彼がどうしたいのか、アンジョルラスには良くわからなかった。いや、わかる気がしたのだが、深く考えることを拒否した。 昨日のリュシフーの家の一件や、先ほど感じた粘ついた感情。それから、いまじくじく痛む胸のうち。そういうものの理由が分かってしまいそうで、急に恐ろしくなった。 僕たちはこれから、どうしたらいいんだろう。 君はどんな景色を見ているんだろう。 首筋には唇の濡れた感触が、身体には縋りつく力が、胸には得体の知れない鈍い痛みが残されている。 アンジョルラスは夜のなかに立ちつくしていた。 |