いつだったか、酔いにまかせて大演説をぶちまけたことがある。テーブルを踏みつけ手を振りかざし、片手にアブサンの壜を握りしめて。理想的国家なんて無縁だったが、まわりで繰り広げられる国家体制だの主義の話があんまりくだらなくて、つい口が出た。 居酒屋に日替わり料理を義務づけること。女工に花柄やレースの作業服を支給すること。昼から飲んだくれるのを美徳とすること。理想の世界を語るたび、喝采と野次が飛ぶので、酔っ払いはとても気分が良かった。 いつの間にか、アンジョルラスが来ていた。彼は部屋の隅に腰掛けて澄ましている。それに気がついたら、なぜか心臓が跳ねあがって、口を噤んでしまった。 まわりはまだ囃し立ててくる。だから、先ほどと打って変わって、一つひとつ、ゆっくり言葉を選んだ。 「僕が法律をつくるなら、こう付け加えるんだ。つまり、」 繋いだ言葉が、彼に届くといいのに。そう思った。 二階窓際からながめる世界 ある者には、一触即発と見えた。他の者には、何かふたりで合図でもしているように思われた。どちらも、あのふたりを良く知らない者の感想だ。なにせ、あの日のバリケードには、ABCの友以外にも、多くの人間が詰めかけ、混沌としていたので。 彼らふたりを知る者たちは、あの光景に何を思っただろう。ほとんどの連中は、酒飲みのたわごとに腹を立てた。この一大事にいつもの調子、いや、それ以上にうるさくわめき散らしたからだ。アンジョルラスが一喝したのもいつものことだと思ったろうし、やがて昏睡に陥った大文字Rの寝息にため息をついた者もいただろう。なにより、その日は酔っ払いの戯言につきあう暇のある者はいなかったのだ。 だから、グランテールの不思議なまなざしに気がついたのは、おそらく結社の優秀な参謀くらいだっただろう。あるいは、不幸な法学生と風邪引きの医学生が今朝のやりとりを覚えていたら、何かに気がついたかもしれない。ただ、このとき、ふたりの視線がどんな色をしていて、どのように交わったかを正しく知る者はいなかった。 グランテールは、網膜に脳裏に焼きつけるように、バリケードを見つめていた。彼の身の内に流れあふれた感情を、いったい誰が表現できるだろう。おそらく、彼自身も言葉にできなかったのに違いない。 彼の指には、金に輝く絹糸のやわらかさが残っていた。それだけではない。抱きこんだ背中の華奢なつくりとか、ふるえてこぼれた吐息とか、滑らかな肌の吸いつく手ざわりが、深く刻まれていた。でも頭を占めているのは、あの出来事というより、目の前の厳しく凛々しいアポロンの、それでも純潔である様だった。 彼はどこまでも高潔だった。あの日のことなどなかったように、清らかなまま。 背には翼が見えるようだ。純白の翼は自由に羽ばたき、彼を手の届かぬ所へ連れて行ってしまうだろう。そんな幻覚が見えていた。 グランテールが彼の純潔を奪ったのは、二日前の黄昏時のことだった。 重たい雲がたれこめ、パリを喪に染めあげる。将軍の命とともに、街角から色彩が失われたように思われた。 将軍の訃報は瞬く間に広まった。午後には酔っ払いを含め、ABCの皆が承知していた。大々的な国葬の報せに、張りつめた空気が街じゅうに満ちる。火種はそこかしこにあった。通りという通りに導火線が張りめぐらされ、かすかな火花でもすぐに引火しそうだった。 ABCの友の会ももちろん銃を手に入れていた。あの秘密の集会所には、火薬が隠してあって、すでに支度は整えられていた。得物が全員に行き渡ったのは最近のことだったので、つまり、準備を急がせたアンジョルラスの予感は的中していた。 誰もが熱をもてあまし、キャフェも居酒屋も、いらつきと浮き立った空気に支配されていた。 さて、大文字Rはその日、一晩中キャフェに居座ったまま眠っていた。途中で幾度か目を覚ましたが、その度にひと口、葡萄酒の壜を舐めてはすぐ夢に戻るのを繰りかえしていた。訃報が入って集会所が騒然となったので、ようやく意識がはっきりしてきたところだった。 彼の感情を正直に記すなら、はりつめて興奮に満ちた場所は、彼のもっとも苦手とする雰囲気だった。 俺には無関係だと立ち去ろうとしたのだが、そのときちょうど、漆黒をまとったアンジョルラスが参謀を連れて足早に入ってきたのだった。 場は水を打ったように静かになった。 暴発しそうな熱気のなかにあって、アンジョルラスの冷静すぎる姿はいっそ異様だった。 敬愛する将軍の死を受けて、彼はすぐに喪服に身を包んだ。黒のベストにさらに深い漆黒の上着。帽子を目深に被り、手袋をはめていた。革命だ、暴動だ、と気炎をあげていた連中は、その静謐な姿に言葉を失くした。 一人の男が死んだのだ。皆がそれを思い出した。 アンジョルラスは極めて冷静だった。明日の葬儀に決起すること、あちこちの同志が一斉に蜂起すると連絡し合っていること、武器の場所や、葬列のルートについての情報を集めていることなど、落ち着いた調子で滔々と語った。 意図してなのか違うのか(あるいは、有能な参謀の助言だったのかもしれないが)、その喪服のために、皆は首領の話に聞き入った。興奮するばかりだった連中が、明日の算段について頭に入れることができたのだ。そして、彼の喪服は、ひどい酒飲みのことも黙らせた。 酔っ払いは部屋の隅っこに座って、葡萄酒の壜を握って、黙っていた。 繰り広げられる葬儀の話はどうだってよかった。もちろん葬式を見に行くつもりもない。ただ、恐れていた日がやってきたことを、うわの空で思った。 このキャフェにかようようになって、気づけば結構な年月が経っていた。その間、くだらないことをしゃべったり、ふざけたり、あてずっぽうの議論をやり合ったりして、笑って怒って、そういう皆の姿を見るのが楽しかった。そこにはアンジョルラスがいて、皆は彼の光について歩いていた。松明を掲げた者と、それに続く光の列にみえた。輝く行列が続いていくのが好きだった。それがいつまでも続かないことは知っていたつもりだった。 松明の行く先はどこだろう? それが天国ではないことも理解しているはずだったのに、今は鉛みたいに内腑が重く沈むのを感じていた。 アンジョルラスの黒い服はどうしたことだろう。将軍へ捧げたものだろうが、彼の目には、やがて訪れる彼ら自身への弔いに映ってしかたなかった。 彼が冷静であればあるほど、それが狂気に映った。表面は穏やかに凪いでいるようで、内面には熱く煮えたものを抱えているのだ。熱はきっろ、他の誰でもなく、アンジョルラス自身を焼き尽くすだろう。 午後七時を待っても、町はまだ落ち着かなかった。街を歩くだけでぴりぴりした空気が突き刺さる。それは彼の縄張りがそういう場所ばかりだったからかもしれない。 一度部屋に引っこんでいたグランテールは、のそりと出てきて隣の例のキャフェに顔を出した。 廊下の奥は厳戒態勢だったので、うんざりして彼は廊下には近寄らず、そばにあったテーブルにどっかり腰を下ろした。 そういえばこちらの席に座るのは久々かもしれない。 ふと目を落とすと、テーブルに見覚えのある文字が刻まれていた。 『自由と解放を!』 それはちょうど、彼がこの店で初めて座った席だった。 「帰ったんじゃないのか」 傍らに、アンジョルラスが立っていた。 「いや、帰ったんだが、腹ペコになったんだ」 「そうか」 彼は酔っ払いの返答など、ほとんど気にも留めていない様子で椅子を引いた。喪服の姿が悲しいくらい美しかった。 「明日の話は君も知ってると思う」 「さあ、詳しいことは知らないけどね」 「それでいいよ」 アンジョルラスは穏やかに言った。 「いつか君が話していた、理想的国家の話を覚えているかい?」 覚えていた。だがとっさに返事ができなかった。 でたらめの、子供じみた、バカげた夢みたいな理想の話だ。『恋からすべての不自由と制限をなくすこと』なんて、思い返すと顔から火が出そうな夢話を、よりによって彼に聴いてほしい一心でぶちあげたのだ。けれど。まさかそんな戯言を彼が覚えているとは思わなかった。あのとき、彼だけは笑わずだんまりのままだった。だから、彼の耳には届歌なかったと思っていたのに。 「憲法に加えるべき、恋の制限をなくすという一文、とかの話さ。僕はよく覚えている」 どうして彼は行ってしまうんだろう。 「そんな未来だって、作れると思っている。君のあの話には自由があった。僕は、そういう未来を作りたい」 明日になれば、帰らぬ人となるか英雄になるか、どちらかだ。どちらに転んでも、手も声も届かなくなる。 そんなものになるなと言いたかった。自分だけの英雄でいい。でもそれは幼稚で勝手な我がままで、とても口に出せるものではなかった。 言うべき言葉を見つけられないままでいると、アンジョルラスが席を立った。見上げた瞳は決意にあふれ、きゅっと引き結ばれた唇は、熱を孕んで赤く色づいていた。ばら色の頬、白磁の肌は、身にまとう漆黒のせいで、より一層芸術品のようにかがやいた。ブロンドが上着にかかり、黒と金の対比が美しい。 明日には彼は遠くに行ってしまうのだと思うと、たまらなかった。どうせ世の中など、儚いものだ。何ひとつこの手にとどめることはできない。わかっている。彼が去りゆくのも、止められない。 酒飲みは彫像の姿を焼きつけるように眺めた。 「さあ、こんなところで時間をつぶすくらいなら、君のアパルトマンに戻りたまえ」 アンジョルラスは音を立てて一本の壜をテーブルに置いた。それは、以前欲しがった葡萄酒だった。ラベルに驚いて、はじかれるように、アンジョルラスを振り仰いだが、すでに彼は戸口に向かっていた。 「待ってくれ、これは、」 「僕には必要がないので、持て余していたんだ。君にやったところでどうにもならないが、放っておかれるよりいいだろう」 彼は振り向かなかったし、声もつれなくそっけない。 でもグランテールにはわかってしまった。きっとこれは、アンジョルラスのお別れの言葉だ。 こんなものを欲しがっていたのを覚えていたなんて、知らなかった。 壜が告げる無言の別れが、深く心を刺した。彼は明日の闘いに酒飲みが参加するなど考えていないし、望んでもいない。せめて餞別にとこれを寄越したのだ。 扉が閉まった瞬間、はじかれたように立ちあがり、走り出した。後姿はすぐに見つけられた。サン・ミシェル広場にさしかかるとこで、呼び止めた。 「アンジョルラス!」 彼が立ち止まる。ちらりとだけ振り向いたが、そのまままた歩みを進めようとした。グランテールは回りこんで、目の前に立ちはだかった。 「退いてくれ」 「いや、退かないよ」 「僕にはやるべきことがある。そこを退きたまえ」 「いやだ。行かせたくないんだ」 大きなてのひらが華奢な腕をつかまえる。強く引き寄せて無理やりに抱きしめた。 腕の中の身体が身じろぐ。背は高いが、華奢なつくりの身体はすっぽり腕に収まった。鼓動が早くなるのを感じながら、さらにきつく閉じこめる。 「グランテール」 戸惑いがちに咎める声が耳に降ってくる。 警笛が聞こえたのはそのときだ。はっとして広場に目を移すと、広場のむこうに不気味な影を認めた。このところのきな臭さと将軍の死に、警察も神経をむき出しにしていたのだ。 こちらに気づいているはわからない。二人はほとんど本能的に身を隠した。特にアンジョルラスは、ともすると警察から目をつけられている可能性もあると思ったのだ。 幸い、このあたりの道は入り組んでいたし、二人はその路地裏の隅々ませ良く知っていた。 路地裏で息をひそめる。重たい足音がやたら大きく響く気がして、動きを止めた。 「怪しい奴らはいないか」 奴らは野良犬のようにぎらついた目をしていた。なるべく闇に溶けこむように、路地裏にぴたりと貼りついて息を殺す。足音がはい回るのを聞き、立ち去るのをひたすら待った。アンジョルラスが黒い服を着ていたのが幸いだった。 どのくらいの時間そうしていたのかわからない。 息を殺している間、ふたりは見つめ合った。アンジョルラスが戸惑う瞳で見つめ返してくる。こんな時だというのに、あの日のことを思い出して、身体は素直に発熱を始めてしまう。 永遠にここから出したくなくなった。永遠? 執着? そんなもの無用だったはずなのに。 この感情がなんなのか、わからなかった。はじめは、彼の高潔さを眺めているのが面白かっただけなのに。 彼にしか聞こえない声で、名前を囁いた。 隠れるためでなく、意図をもって抱きしめる。黒い上着の手ざわり。彼は肩を震わせ、眉をつりあげて睨みつけてくる。けれどお構いなしに上着の裾から手をさしいれた。路地のむこうには、まだ人の気配がしている。大きな声を出せないのを知ったうえで、黒いベストのボタンを外し、懇願するように首筋に唇を落とした。彼が息を詰めるのを感じながら、ゆっくりシャツの上から指を這わせる。胸に手が当てられて突っぱねられる。だが決定的に突き放すような強い力ではなかった。その優しい力を味わってから、指をからめ取り、薄汚れた煉瓦の壁に押しつけた。 「……っ」 張りのある胸元で指を遊ばせると、アンジョルラスがしゃくりあげるように息を詰め、首を振る。いつのまにか親指にぷつりとした感触が当たったので、その周りを親指でなぞる。相変らず眉間に皺を寄せて、拒絶の表情を浮かべているが、乱れ始めた息には拒絶だけではないものが含まれていた。 「アンジョルラス」 鼓膜に名前を吹きこむ。耳朶を甘く噛み、首筋を舌先でなぞる。今度は耐えきれないというように、ぎゅっと目を瞑り、壁に繋ぎとめられた手を強く握り返してきた。グランテールは昂りはじめた自身を彼の太ももにぐっと押しつける。背の高い彼の膝が崩れ、壁伝いにずり落ちはじめている。無理やり壁に繋ぎ止めながら、今度はシャツの上から胸の先を吸った。 「っ! ッ……ぁ」 こぼれた声はかすかだったが、あきらかに色を帯びたその音は、鼓膜をつたって脳まで揺さぶった。鳥肌の立つくらい、官能を揺さぶる。あの高潔な天使はこんなに熱っぽい声を隠していたのだ。路地の向こうの足音も、銃の音も、キャフェに集った連中も明日の葬儀も、なにもかも頭の中から消えていく。 細い首元を飾る黒のリボンタイをほどく。きっちり結わえられており、片手で外すのがもどかしい。引き千切ってやりたくなるのを堪えてほどき、瀟洒な飾りボタンを歯と手を使って外してやる。アンジョルラスが何度も頭を振りながら、ちいさな声を上擦らせながら「だめだ」とこぼした。 はじめてふれた素肌は、うっすら粟立っていて、すこしひんやりしていた。彼に酔ったみたいに、グランテールはその胸に甘えた。たわわな乳房があるわけではない。張りのある筋肉が乗っていて、肋がうっすら浮いている。鎖骨と首筋もくっきり浮き出ている。均整がとれており、透き通る肌の白さも相俟って、本当に大理石像のようだ。しかし決定的に違うのは、胸の奥で心臓がどくどく脈打っているということだ。 心音を確かめるように頬を寄せてから、胸先への愛撫を再開する。ちいさな薄桃はふっくら立ちあがっている。指先でつつくと彼の四肢が痙攣した。純潔の色であるゆえにグランテールを誘惑する。下肢に血が溜まるのを感じながら、そこにちゅっと吸いついた。 「っっ!」 白い首がのけぞった。舌に直接届く優しい弾力に酔う。舌を小刻みに動かし、時々甘く噛み、ちいさく音を立てて吸う。心音は速度を増して二人の胸を打ちつける。 ふと、腹の上あたりが熱いのを感じた。気がついて、つないだ手をさりげなく解く。そして、腹に密着していた細腰に手を添え、ゆっくり手を下に這わせていく。固くなった形をなぞると、かすかに悲鳴があがった。 「待っ、てくれ、いや、いやだ……ぁ」 待てるわけがなかった。彼が欲情しているということに、血が沸騰しそうだった。天使でもなんでもなく、ただ一人の男として存在していることに、激しく感情を動かされる。ショックだったのかもしれないし、嬉しかったのかもしれない。ただ言葉にならない激情をぶつけるように、鎖骨に噛みついた。ほとんど力の入らないアンジョルラスを壁に押しつけて、膝で局部を擦るように体を支える。そのたびに乱れたブロンドが額に、肩に降りかかる。 眉をよせ、まだプライドは半端に保ったまま、屈辱と快感のないまぜになった表情は、おそろしいほど美しく、罪深くて官能的だった。肌蹴たシャツからこぼれる白磁の肌。喪服の黒が倒錯的に思われ、背徳に酔い痴れる。脈を打ちはじめたてのひらの中の昂りをそっと擦る。吐息が荒くなり、喘ぎが混じりはじめる。 ゆっくり服を膝まで降ろす。無防備にさらされた裸体は息を飲むほど美しかった。昂りはあわく無垢な色をして、先端を赤く染めている。美しい形をしたそこは、グランテールとはまったく別物のように思われた。腫れた先端が粘膜で濡れ、てらてらと光る。グランテールはずり下がって、震える先端に唇を落とした。やわらかい根元のふくらみをそっと包んで優しく弄りながら裏筋を舐めあげ、張り出しを包んで吸った。 「ぁァっ……! や、やめ、」 膝ががくがく震えている。先端からは潮があふれ、すでに限界が近いのは明白だった。 唇を離し、ごつごつした手で彼のまだ無垢なペニスを包み、激しく上下させた。 「や、いやだ、あぁ! おかしく、な……っっ」 瞬間、濡れそぼった先端から白いものが勢いよくあふれ出した。飛沫は無骨な手をしとどに濡らし、腹や胸まで汚した。青臭い匂いが満ちて、ふたりの脳をさらに麻痺させてゆく。 荒い息を吐いて体を痙攣させている。その表情には苦悶だけでなく、深い快感が刻まれている。安堵の息を吐かせる間もなく、グランテールはぬめる指をもっと奥深くに潜らせた。 「! な、何を……」 「静かにして」 耳元に囁く自分の声が、思っていたより切羽詰まっている。円を描くように襞をなぞってから、指を差し入れる。中指で襞をかき分ける。のけぞった喉がひゅっと音を立て、指がぎゅっと肩を掴んでくる。つぷつぷとゆるく出し入れを繰りかえし、そのたびに萎れかけた彼の先端を撫で、体液を掬っては中を濡らす。「いやだ」と小声で訴えるのを、背中をなぜてなだめすかす。徐々にぐっと力を加えて中指を突き入れる。内部が温かく指に密着して、圧迫感に指だけなのに眩暈がした。 指を曲げてすこしずつ道を開いていく。人差し指を同時に入れると呻いた。それがたまらないほど扇情的で、グランテールは自らの昂りが潮を漏らして衣服に染みをつくるのを自覚した。ゆっくり馴らさなければいけないと思うのに、指にはその意志がうまく反映できない。日本の指は忙しなく出入りを繰り返し、粘膜の音をちらつかせながら狭い通り道をこじ開ける。その過程で中指がある一点を強く抉ったので、瞬間白い身体が激しく痙攣した。 「うぁっ! あ、あっ」 肩にかけられた手がずり下がる。同時に彼の身体からも完全に力が抜けて、指先だけでしがみついてきた。仰向く青の瞳は見開かれ、未知の感覚への恐怖と理性で抑えきれない快感に涙を浮かべている。 「ンン! っ、う、い、いたい……」 さきほどの辺りをさらに推し続けると、痛みを訴えながら、ついに一筋、透きとおる滴が紅潮した頬をつたっておちた。 「ごめん、アンジョルラス、……ごめん」 耳朶を掠めながら囁く。声は聞こえているらしく、ひたすら首を横に振った。それが何を訴えているのかわからない。おそらくは拒絶の意だったろうが、気づかないふりをして、そのまま指を引き抜いた。 警官どもは行ってしまっただろうが、人気がないにしても、パリの街頭だ。頭上には重たい雲がかかり、さっきから雨の匂いが混じっている。風になびく木々の葉擦れがずっとやまない。やがて天気も崩れるかもしれない。だから、指を引き抜かれたとき、おそらくアンジョルラスは安堵したのだろう。いつ終わるとも知れない責苦がようやく消えたのだ。思考は麻痺していただろうが、これで終わったのだ、といった具合に、深くため息を吐いていた。とろんと瞼が閉じかける。が、瞳が隠される寸前で、声にならない悲鳴と共に再び見開かれた。 「――ッッ!?」 半ば無理やり先端をうずめるが、予想以上に狭く、グランテールも痛みを覚え、肩で息をつく。こんな場所で、無茶をしているのは承知していた。けれど抑えることなんてできなかったし、なにより、おそらくこれが最初で最後の情交になるとわかっていた。無茶をするより残された道はなかった。 「あ、ぐ……っ、やめ、ろ……」 背中を壁に押しつけられ、前からはグランテールに圧迫され、彼は呻いた。 内側は推し進めるたび摩擦で熱を孕む。熔けた錫に突っこんでいるようだ。ときおり中が引き攣って、からみつく粘膜に、痛みも忘れる。 すっかり青ざめた頬に口接けし、胸や萎れた局所を愛撫する。 「ごめん」 何を言っても無駄だとわかっていたが、気がついたら莫迦みたいに謝罪ばかり口にしていた。なにより酷いのは、謝罪しながらも奥へ奥へ突き上げるのを止めないことだった。 「ぅう、あ、」 無垢だった唇からは、もう拒絶の言葉も、懇願もなく、ただ懸命に抑えても零れる悲鳴しかきこえない。 ひときわ強くつらぬき、無理やりほぼすべてを穿ち、大きくため息を吐いた。酷いことをしている自覚はあるのに、もう体は快感にあぶられて止まらない。処女よりもずっときつく締めつけてくる。先ほど彼が乱れた場所を探ろうと腰をゆする。その度粘膜が絡んで恐ろしい快感が背筋を駆け抜ける。なにより、今腕の中に閉じこめているのが、そしてこの熱の持ち主が、あの何度も焦がれてたまらなかったアンジョルラスのものだということに、脳の髄から痺れる心地だった。 繋がった快感に酔ってふかくまぶたを閉じていたら、首筋にちりっと痛みを感じ、おどろいて目を開ける。首元にはブロンドが降りかかっていて、アンジョルラスが首筋に噛みついたのだと知る。きっとせめてもの抵抗だったのだろう。けれどその痛みすら快感でしかない。グランテールはさらに前が滾り、おそらくアンジョルラスの内部を己の先走りが汚すのを感じた。事実、繋がれた内部がじわりと湿り気を帯びて、ゆっくりと続けていたグラインドの滑りが良くなっている。 目の前のブロンドに指をあそばせ、包むように撫でる。するとアンジョルラスが顔を上げた。 寄せた眉、蒼い頬、潤んだ唇。きつい視線は切実な色を帯びながら、グランテールの胸を貫いた。「なぜ」という問いかけと、屈したくないという矜持と、苦しさ。そういうものが全部詰まった目が睨みつけてくる。 そのまなざしに、なぜだか泣きたくなった。犯しているのは紛れもなくグランテールで、そんな資格はないことは承知していたし、きっと泣きたいのは彼のほうだったろう。けれど辛くてたまらなくなった。 こうして何もかも自分の手で手折って、手放してゆくのだ。彼を引きとめることもできぬまま、そこに寄り添う手段も自らの手で断ち切って、自分はどこへゆくのだろう。 視線を交わらせたまま、激しく彼をいたぶった。 ゆさぶられるたびに薄い背中が壁に擦れ、苦しそうに呻く。彼が苦痛に耐えれば耐えるほど、可哀想で、愛しくて、劣情をそそって仕方ない。 夢中で何度も突き上げる。 「グ、ランテー……ル、」 不意に、名を呼ばれた。憎しみと苦痛、そしてほんのわずかの憐れみの混じった声。それが鼓膜を打った途端、頭が白く染まった。 腫れあがった自身を奥深く突き入れる。一拍遅れてから、腹の底から強烈な快感が噴き上がる。壁にこれ以上ないくらい押しつけて、彼の内壁と、吐息と、自分の脈拍をうるさいほど感じながら逐情した。 身を震わせながら精液を出すたび、ぼんやりと、自分のなかが空っぽになる気がした。 犬どもの気配はすっかり消えているが、路地裏には不気味な静けさが残っていた。 身体をほどくと、注いだ体液が白い腿を伝って汚すのがわかった。腹の上では二人分の体液がまじり合っている。ハンカチを持っていない事に舌打ちしたい気分だった。 呆然とするアンジョルラスの身体には、力が入っていなかった。のろのろした動作で上着のポケットからハンカチを出し、汚れた箇所にあてがった。まだ力の入らない手からそれを取りあげ、代わりに拭き清める。そのたび、綺麗なハンカチがべっとり汚れてしまった。太ももから局所を拭いたときには、アンジョルラスが苦しそうに顔をゆがめた。声こそ漏らさなかったものの、痛みを堪えるように肩で息をしている。、ハンカチには白いものと一緒に血がついた。赤い色を見たとたん、彼の純潔を奪ったという罪悪感がずしりと肩にのしかかった。 彼の潔癖なまでの高潔さがを愛していたのに、自分の手で引きずり落とし蹂躙したのだ。 言葉はなかった。見つめ合っても、まなざしに込められた意味をつかめず、から回りする。あんなに深く交わっても、彼の思いの欠片ひとつだって得られない。まして、彼をこの手に繋ぎとめられるわけもない。 シャツを整えてやろうとしたが、手が遮られた。アンジョルラスは硬い表情で衣服を整える。言葉もなく去ろうとする彼に、愛してると一言告げたが、自分でもわかるほど薄っぺらな言葉にしかならなくて、当然振り返ってもらえるはずがなかった。 一方的に想いを遂げたところで、何になるというのか。まさしくこれこそ、無意味で空虚な行為だ。いや、空虚よりひどい。何より愛する男を、一番おぞましいやり方で傷つけたのだ。 重たい脚を引き摺る。キャフェまではほんのすぐ傍なのに、どんな険しい道より遠く感じられる。奥の間はまだ盛りあがっていて、皆が待ち焦がれる首領を傷つけたことが苦しかった。合わせる顔もなく、先ほど店に置き去りにした葡萄酒だけ持ち、部屋に戻った。軋む古ぼけたベッドに身を沈ませる。ひどく憂鬱だった。 壜はテーブルの上におとなしく収まっている。彼にこれを開ける権利なんてなかった。体には、先ほどの情事の名残が色濃く残されている。 ポケットに突っこんだ汚れたハンカチ。その赤い汚れを見ると息が詰まった。そのくせ、あの一時の熱情にうしろ暗い悦びを覚えてたまらなくなる。苦痛と喜びに翻弄されるアポロンの姿は、これまで見てきたどんなものより官能的だった。傷つけたことに深い罪悪感を味わっているくせに、同時にもっと欲しいと強請る自分がいる。所詮こんなものだ。自分のあさましさが笑えた。 許されることも、救われることもないのだろうと思った。 バリケードからのまっすぐ見上げる強い瞳。あんな仕打ちをしても、アンジョルラスはグランテールをまっすぐ見つめてくるのだった。もちろん、軽蔑の色ばかりが浮かぶ険しい顔だ。だとしても良かった。 いつも、胸のうちに宿るある想いを伝えたいと思っていた。毎晩、彼は夢の中で、その言葉を思い出す。それは、彼の姿がどんなに美しいかとか、なんて堂々とした姿なのかとか、そういう類の想いではない。けれど、いざ言おうと思っても、すぐに忘れてしまうのだ。なにせ、頭はアルコールでいっぱいだったので。 コラント酒場の二階の窓辺。酔いの醒めた酔っ払いは、そこでやっと思い出した。 君はどんな世界を見ているんだろう? すべてのはじまりは、その思いだったことを。 胸にあふれる感情に名前をつけられず、振り向いてもらえることもなく、悩んで無理やり奪ったが、やっと思い出すことができた。ただひとつ望んだことは、彼を同じ世界を見たい。それだけだった。 張り裂けそうなこの胸のうちが伝わらなくても。ただ彼が生きて、言葉を紡いで、ときどきこちらを何とも言えないまなざしで見据え、まなざしからは、きらきら光が降る。それだけのことが愛しいとようやく悟った。 窓辺から、ただ彼のことだけを見つめている。 せめて最後の時は、彼の隣で、おなじ景色をながめていたい。 長らく神に祈ったことはなかったのに、この時ばかりは祈らずにいられなかった。これまでただ一度だって祈りを聞き入れてくれたことなどない神に。 ようやく目を覚ましたと思ったが、まだ頭がぬるま湯につかっているようで、はっきりしなかった。目に映る景色はぼやけて、夢の中で見る夢なのだと、なんとなく悟った。多分ここはコラント酒場のはずだが、蝋燭やケンケ灯のあかりが部屋じゅうのものの輪郭を曖昧にしている。店が深い海の底に沈んだようだ。 いつの間にか、隣にアンジョルラスが腰かけていた。曖昧な視界の中、彼の姿だけがはっきりと目に映る。彼は緩く目を閉じ、めずらしいことに、椅子にかけたまま眠っているらしい。穏やかな口もとには、うっすらほほえみが引いてある。 手を伸ばしてみても、彼は起きない。頬にかかるブロンドに指を絡ませ、ささやいた。 「アンジョルラス」 姿は見えないのに、耳には絶えず喧噪が響いている。周りの連中の声がうるさくて、声が彼の耳に届かない。かすかに睫毛を震わす様だけが目に焼きついた。 はやくその輝かしい瞳をひらいて、いつもみたいに、皆と話をしてくれないか。 グランテールはじっとみつめる。いつまでたってもアンジョルラスは起きなかったが、ふいに、周りの喧噪が止み、静けさが訪れた。もう夜も更けたから、皆は帰ったのかもしれない。部屋はふたりだけの世界になる。 「なあ、アンジョルラス。皆、もう帰ったよ」 彼はそれでも目を覚まさない。 「アンジョルラス、起きてくれ。そして君の見る世界を語って聞かせてくれよ。僕は、君の見ている世界が見たいんだ」 そのとき、長い睫毛が再び震えて、あの深い瞳がゆっくり現れた。虹彩に溢れるほどの光をたたえ、そこに映るのはただひとり、グランテールのみだった。 彼がほほえむと、光が降るようだ。 かすかに聞こえる音が銃声だと、うっすら気がついていたが、彼の心はかつてないほど満たされていた。 |