まだまだ始まらない







坂田先生は、取り立てて何があるわけでもない日常を送った。


朝の準備室での一服は忘れず、HRに顔を出し、適当に授業をする。
空いたコマには時々屋上でサボった。終礼の後は職員室でコーヒーを飲みながら事務仕事をして、適当に帰って寝る。
プライベートを持ち込まない坂田先生は、マイペースで放任主義だった。担任のクラスの生徒は放任主義に慣れておらず、坂田先生はなんとなく怖がられていた。坂田先生は生徒たちの心境に気づいていたが、全く気せず、ひょうひょうとした態度を変えることはない。いつものとおり、感情は持ち込まず、淡々と日々を過ごした。


それでも唯一、坂田先生の感情に引っかかっていたのが、桂少年の存在である。
彼の奇跡的なアホさは、坂田先生をこれ以上ないほど手こずらせた。
一学期の中間テストで彼の補習を担当したとき、坂田先生は悟った。

コイツは本物だ。
一度や二度の補習では、コイツの「パーン」は矯正できない。
とにかく考え方から矯正しなければならない。

桂少年への指導は、坂田先生に思わぬ奇跡を起こした。
テストの補習のたびに、彼はありえないほど根気よく指導した。桂少年は決して怠惰ではなかったので、まじめに補習に取り組んだ。究極のアホ相手にどう教えるか、自分の力が試されている気さえして、坂田先生は久しぶりに燃えた。初めてパワプロで自分の名前の選手を育てたときと匹敵するほど燃えた。
毎度赤点だった桂少年は、坂田先生の指導によって、すこしずつ点を取れるようになってきた。しかし今度は古典が致命的だったりと、桂少年は常に坂田先生を飽きさせることはなかった。
坂田先生は、いつもと同じゆるい態度を崩しはしなかったが、内心では桂少年のテストの結果を楽しみにしていた。


坂田先生は、自分の担任の生徒だけで手一杯だった。というより、担任の生徒以外には関わらないのがモットーだった。
しかし学校祭でも体育祭でも、桂少年の姿は坂田先生の目についた。
坂田先生は名ばかりの茶道部副顧問だったのだが、もう一人の顧問にまるきり任せきりにしている。それでも茶菓子目当てに、たまには茶道室に顔を出す。茶道室までの道すがら校内をぶらついていると、いろいろなところで桂少年を見かけた。
あるときはバスケ部、あるときはサッカー部、またあるときは演劇部(海賊のキャプテンの役だった)。ちゃっかり茶道部で茶をしばいているときすらあった。
補習のときに気まぐれに聞いてみたところ、部活はやっていないと答えた。ただ、人に頼まれてはいろいろな部活の助っ人に出ていると言う。桂はどんな部活にも、びっくりするほど自然になじんでいたのが印象的だった。

それでも所詮桂少年は彼の担任ではなかったから、進路などは知らなかったし、知る必要もない。桂少年について、多くを知っているわけではなかったのだった。


次の春、坂田先生は2年Z組の担任となった。
Z組に集められたのは、名だたる問題児ばかり。
沖田、近藤、神楽。
この先の二年間、のメンバーで最後までやり通さなければならない。

「何コレ、俺への嫌がらせ?」

クラスの名簿をを見ながら、猛者達を一体どうしたものかと悩む。するとある名前に目にとまった。

桂小太郎。

名前を目にしたとき、坂田先生はなぜか「やはり」と納得した。
何に納得したのかはさっぱりわからないが、坂田先生は何か感じるものがあった。

新学期の朝、坂田先生はいつものようにジャンプを読みながら一服した。ふと顔写真つきの座席表を眺める。
座席表の写真の桂と目が合った。まっすぐな目。

「写真写り、悪ぃな」

坂田先生はほんのすこしだけ笑って、写真の桂の頬を指先でつついた。

「さてと」

坂田先生は使い慣れたキャスター付きの椅子から立ちあがり、黒い表紙の出席簿を手に取る。


新しい一年のはじまりの日、教室へむかう坂田先生の背中は、あまりにもいつもと同じ背中であった。



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