戻ってきて







坂田は以前、同僚の坂本に聞いてみたことがある。生徒に手を出したことはあるのか、と。
坂本は豪快に笑って答えた。

「おりょうちゃんに手ェ出そうと思ったことはあるのォ」

彼女は坂田のクラスの生徒だった。

「出そうとしておしり触ったんじゃが、セクハラだっちゅうて殴られたぜよ」

アッハッハ。

夏から抱えている問題をさりげなく相談するつもりだった坂田は、それ以来その話題を封じた。




11月、色づいた葉が風に揺れる。
新しい学級委員はかなりの曲者だった。
女子生徒である上に、あからさまに坂田に好意を寄せて迫ってくるので、身の危険を感じた坂田はできる限り彼女を遠ざけねばならなかった。しかも、遠ざければ遠ざけるほど、

「先生ったら・・・そういうプレイ?それもそれでいいんですけど、私もっと激しいのが好きなんです」

と、M丸出し発言をする。
彼女は一生懸命委員の仕事に取り組んでくれてはいた。しかし彼女の書いた議事録にはほとんど坂田の行動しか書かれていなかった。一挙手一投足を乙女フィルターにかけられて綴ってあるのを見て、坂田は恐怖を覚えた。
彼女を国語準備室に入れないようにするのも一苦労だった。あんな個室で二人になってしまったら、教師生命に関わるダメージを受けかねない。
それで坂田は、放課後には国語準備室に鍵をかけて出歩くようになった。
坂田が一番手を焼いていた国語の問題児は、つい先日の中間テストで国語の赤点を卒業した。彼は同時に学級委員まで卒業してしまったので、坂田は放課後の時間をもてあましていたのだった。



晩秋の夕方は早い。
6時を回った頃には、もうとっぷりと日が暮れていた。
体育館やグラウンドには、部活中の生徒が残っている。しかし校内は暗く、人気がない。茶道室からの帰り道、サンダルの乾いた足音は夜の廊下によく響いた。

2階の一番奥、図書室からあかりが漏れていた。
坂田はドアの窓からのぞいたが、人の姿は見られない。坂田は気まぐれに扉を開けた。
やわらかい木目を基調とした図書室のカウンターには誰もいなかったが、筆記用具と荷物が置いてある。
奥の棚から小さく物音がしている。
坂田は物音のする場所を探して本棚の間を歩いた。

整頓された棚。
分厚い辞書やびっしり並んだ文庫本。
閲覧用のデスク。
一番奥の棚に、桂がいた。

桂は返却された本を棚に戻す作業をしていた。傍らには大きなワゴンがある。ワゴンの中身はほとんど残っておらず、この棚が最後なんだろうと予測がついた。
あの夏祭りの日から、坂田はまともに桂を見ていなかった。
決して坂田を振り返らない、まっすぐとしたその背中ですら、見ることができなかった。
坂田はこの背中に飢えていた。

「ヅラ」

坂田が名を呼んでも、桂は振り返らない。
本を持つ細い指とか、長い黒髪から少しだけのぞく白い首筋とか。そういうものを目で追ってしまって、坂田の頭の中に警鐘がひびく。

「ヅラじゃありません」

「図書委員って忙しいの」

「いえ」

桂は本の整理を続ける。
坂本とのやり取りが坂田の頭によみがえる。あの坂本ですら、生徒に手を出したことはないのに。

「いつもこんなに遅いの」

「月・木だけです」

猿飛のことを思い出す。たとえ感情だけであっても生徒に特別な感情を抱くべきじゃないし、抱きたくもない。そんなことはわかっている。彼女にはあんなに警戒していたのに、これでは言い訳なんて出来ない、俺は彼女と同じだ。

「・・・ヅラ君さ、学級委員に戻らない?」

桂の手が止まった。
こんな仕草をしてみせるから、坂田は桂も自分に対して思うところがあるんじゃないかと勘繰ってしまう。

「なぜですか」

「んー、あいつ面倒なの、さっちゃん。議事録変なのしか作ってこねぇし」

俺は面倒なことが大嫌いだし、仕事にプライベートは一切持ち込まない主義だ。

「でも彼女一生懸命でしょう、先生のこと、好きなんですよ」

それでももう、面倒だっていい。

「桂」

坂田は後ろから桂を押し付けるように、本棚に手をかけた。
急に低くなった坂田の声に、桂が息を呑み、固まる。

「先生は、お前が良い」

「どうしてですか」

「だってお前のほうがいいんだもん。だから学級委員に戻んなさい」

ふざけたように駄々をこねて、坂田は桂の持っていた本を奪った。『ライ麦畑でつかまえて』だった。

「そんなの無理ですよ、ただのわがままでしょう」

「もう先生決めたから。お前が委員長。そうじゃなきゃ俺もう授業すんのやめるわ」

「そんなの横暴です。途中で委員の交代なんて、聞いたことありません。無理に決まってます」

「やってみりゃいいんだよ。やるまえから投げ出さない!若者だろうが」

坂田は本で桂の頭を軽くこづいた。桂を少し困らせたことに坂田は満足する。

「・・知ってはいましたが、先生はおかしいです。なに考えているのかさっぱりわかりません」

「うん」

「俺、先生のことを考えると疲れるので、やめることにしたんですが」

桂は憮然とした声を出す。
不器用で素直な桂がなんだかおかしくて、坂田は少し笑った。

「ごめんね。先生もお前のこと、いろいろ考えてんだけど。それはまだお前には言えねぇな」

「今言ってください」

桂は坂田の手から本を取り戻す。
桂の耳が赤くなっている。
今なら冗談で済ませることも出来るし、ただのスキンシップにできる。
でももういいよな、いいだろ?

「俺も国語、わかるようになりましたから。先生のことだって」

桂の言葉をさえぎって坂田はその頭をぽかりとたたく。桂が痛がって声を出したが、坂田は無視して強く抱きしめた。

「何わかった気になってんだバカヤロー。まだまだに決まってんだろーが!!」

「先生」

桂の髪に顔をうずめると、シャンプーと桂のいい匂いがした。

「さっさと終わらせて帰んぞ」

坂田はそう言って体を離す。
桂がようやく坂田を振り返った。
その目が自分だけを映していることに、坂田はめまいを覚えた。
この先はまずい、そう理解しながら坂田は桂を上向かせる。
桂は逃げない。
これでこのへんてこで愛しい爆弾が自分の手に落ちるのならば。

「いいのかよ?」

返事はない。
坂田は桂のくちびるをやわらかく吸った。
もう何も考えられなかった。



それから程なくして、2年z組の学級委員が変わった。
期中の変更だったので皆は戸惑ったが、それまでの議事録を見せれば文句を言う者はなかった。
学級委員だった彼女はもちろん反対したが、誰が言いくるめたのか、案外あっさり引き下がった。
2年z組には、再びなんでもない日常が戻ってきたのだった。


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