ミルク 明くる朝の桂は、まるきりいつもと同じに見えた。相変わらずの無表情で、じっと出席を取る銀八を見ている。 落ち込むとかねぇのかよ。 昨日の今日だというのに、桂が何を思っているのかわからない。昨日、国語準備室を出たときの桂は確かに落ち込んでいた。実はそこまで怒っていたわけではなかった銀八は、その後ろ姿をちょっと抱きしめたくなったのだけれど。 今日はあだ名で桂を呼びたい気分ではなかったが、不審に思われたくなくて、結局あだ名で呼んで出席を取った。桂がまるきりいつもどおりの反応を返すのを無視する。 なぜこんなことで気を使わなければならないのか、銀八は納得がいかない。 少し悔しくなって、銀八は今日一日、絶対に桂と目を合わせないと決めた。 一日中クラスに張り付かなくていいという点では、高校教師は気楽だ。 サボれるし、と銀八は国語準備室で煙草をふかす。校内は一応全面禁煙になっているので、換気扇を回して窓を少し開ける。流れ込んでくる空気はまだ冷たい。 テーブルには昨日のチョコが置いてある。捨てるわけにもいかず、食べるわけにもいかず、結局包みなおしてテーブルに置いたままにしてある。 つーか誰だよ、高杉って。 実際、銀八は桂について、知らないことが多すぎた。友人関係、休日のすごし方、好きな映画。そういえば一度も二人で遊びに行ったことがない。強いて言えば夏祭りくらいだけれど、それはこうなる前の話だ。 銀八はこれまで、週末だけ会うパターンが多かったから、毎日顔を合わせる今の状態で十分だと思っていた。何より、うっかり休日に会って間違いがあったら大変なのだ。 けれど桂は違う。 思えば桂はこちらに何かねだってくることは少ない。あれが欲しいとか、これをしてだとか、ずっと一緒にいてだとか。桂は自分をはっきり持っていて、あまり銀八に寄りかかってこない。 それでもやはり桂は17歳だ。子供とはいえないけれど、まだ大人でもない。まして桂にとって銀八は初めての相手なのだ。本来ならイニシアチブを取っている銀八が優しくリードしてやるべきだが、あいにく彼は桂を寛容に包み込んでやれるほどの優しさと余裕を持ち合わせていなかった。 そのうちうっかり寝てしまった銀八は、3次限目の授業をすっぽかし、校長から大目玉を食らって、始末書を書く羽目になってしまった。 昼休みをまるまる説教でつぶされて、半日不機嫌だった銀八は、半ば八つ当たり気味に足で2zのドアを開ける。 「ハ〜イてめぇら席に着けコノヤロー」 授業の終わったクラスは修学旅行の件で盛り上がっていた。班もろくに決められない生徒たちを憂いながら、それを無視してとっととホームルームを始める。 横目でちらっと桂を盗み見たとき、銀八は彼の様子がおかしいことに気づいた。 桂は担任の都合でいつも教壇の前の席に座らせている。 いつもそこから張り付くように向けられている視線がない。桂は上の空で、ぼんやりしてから首をひねった後、手帳に何か熱心に書き込んでいる。 今度は何をはじめたのか、と銀八は不安に思ったけれど、突っ込める状況でもない。仕方なしに、いつものように適当にホームルームを終えてしまった。 チャイムの音、背伸びをする生徒、机を動かすうるさい音。 にわかに騒がしくなった教室の中で、桂は一目散にあるクラスメイトの席にかけていく。植物を愛する優しさはあるが図体が大きく、恐ろしい風体の男と桂が並ぶと、そこだけ合成写真のようだ。そこまで接点がある二人とも思えない。昨日の今日で、しかも桂の様子がおかしかったのだから、銀八はその行動が気になって仕方ない。 ざわざわとうるさい教室の中で、彼は耳をそばだてる。雑音がうるさくて会話はところどころしか聞こえない。 「・・の原産地は・・・」 「・・・ールが一番多いと・・・すよ」 「・・・・・が一番・・早いな」 「え?でも・・・・・なら飛行機で・・・・3日以上は・・・・・・よ」 「・・にとなると学校を休ま・・・んな」 ここまできて銀八は急にいやな予感がこみあげた。 原産地って。3日間って。飛行機ってまさか。 「・・・なら大丈夫だ。もう計画はあるからな」 銀八はまっすぐ二人へ近づく。 「でも農園もどこにあるかわかりませんし、だいたい言葉通じないと思いますけど・・・」 「大丈夫だ、心さえ通じればなんとかなる。フランス語のガイドブックがあれば安心だな。家からキャンプセットを持っていけば、宿の心配もない。農園にはヒッチハイクで連れて行ってもらえば・・・」 「ヅラッ!!」 銀八は自分でも驚くほど大きな声を出した。 桂と屁怒絽だけでなく、クラス中が銀八を振り返る。 「・・・はい」 桂はどことなく気まずそうに返事をする。 「どうかしましたか」 「ちょっと・・・来い」 銀八は桂の細い腕をつかんだ。桂は軽く抵抗したが、銀八はかまわずその腕を引っ張っていく。皆はポカンとした顔で二人を見ているが、彼はそれもあっさり無視して教室を出て行った。 廊下には放課後の喧騒があふれている。 すれ違う生徒の挨拶も無視する。 部活に向かうと通の野球部を追い越す。 階段までついたときにはすでに駆け足になっていた。 「ちょ、先生待ってください」 桂はほとんど引きずられるようにして銀八の後についてくる。階段を一気にのぼり、廊下の突き当たりの国語準備室に着いたときには、二人の息は切れていた。 銀八は桂をぽいと部屋に放り込み、ぴしゃりと扉を閉める。電気がついていないので、準備室はいつもより暗い。桂は放り込まれたときにバランスを崩して、ソファにひざを打ったのだろう、アイタタタと間抜けな声を出して痛がっている。 「ヅラッ」 「ハイ?・・・というか、なんですかいきなり」 「アホかてめーはっ!なんだ原産地って!コートジボワールか?コートジボワール行くつもりだったのかっ?あ?!」 「どうしてそれを?」 桂は目を丸くして驚いた。銀八は大げさにため息をついてみせる。 「おまえのアホさは大体理解してきたつもりだけど、まさかこんなアホなことを真剣に考えてるとは思わなかった。お前さっき屁怒絽と話してたろ。なんかおかしいと思ったんだよ」 桂はさすが先生、とポツリとつぶやいた。何がさすがだよ、銀八がそう突っ込もうとしたら、桂は急に難しい顔をしてしてうつむいた。 「先生、明日から学校を休んでもいいですか」 「ハァ?なんで」 「いや、だからコートジボワールに行くので、多分4日か5日くらい」 「バカかてめーは!!」 銀八は桂の頭をひっぱたいた。クリティカルヒットしたせいで桂はわずかによろける。 「何考えてんだてめーは!まさか昨日のお詫びとか考えてんじゃねぇだろーな?!」 「先生はなんでもわかるんですね・・・」 桂が予想通りの反応を示したので、すかさず銀八はまた桂をひっぱたいた。 「あいたた・・先生」 「何」 「俺、昨日からずっと考えてました。こういうときにどうしたらいいかって。それで、先生は甘いものも好きだし、昨日最初あんなに喜んでいたから、やっぱりチョコがいいんじゃないかと思ったんです。で、お目覚めテレビの占いでは手作りチョコがいいと言っていたので」 「どんだけ手の込んだ手作り?!・・・つーか何よそれ」 銀八は、冷静になるために一息ついた。目の前では驚きの思考回路を持った桂がはたかれた頭をさすっている。見ると床にはさっきホームルームで桂が書き込んでいた手帳を落ちていた。ペンが挟まれたページが開いている。そこに『やることリスト』と題して、壮大な手作りチョコの計画が書かれていた。ガーナとコートジボワール、どちらで原材料を仕入れるか、本気で悩んだ形跡があった。それを見た瞬間、なんだか気が抜けて、銀八は笑いがこみ上げてきた。 「ほんとお前さ、バカだよな」 「バカじゃない桂です」 「いやバカだよ」 銀八は桂を抱きしめた。 背は低くないけれど、桂はすっぽり銀八の腕に収まる。 「信じらんねえくらいバカだ」 つぶやきながら髪を撫でても、桂は黙ったままだ。 階段を降りてくる生徒の笑い合う声。廊下を走る騒がしい足音。そんなものを聞きながら、銀八はしばし桂を閉じ込めた。 桂の髪をゆっくり触ってから体を離す。銀八は桂にソファに座るよう示した。 テーブルには例のチョコが置いてある。 桂はそれを見て、「そうだ、これも返さないと」とつぶやいた。 銀八は桂の横に腰を降ろして、事の発端になったチョコを手に取り、桂に渡す。 「そうだな、ちゃんと返しとけ」 「もちろんです。高杉にはよく言っておきます」 「で、高杉君て、誰?うちの生徒?」 「いえ、他校です。そろばん塾が一緒なので」 「へえ。青春ですねぇ高杉君は」 「・・・そうみたいですね」 桂は少し寂しそうな顔をした。 アレ?前にもこんなことがあったような。 銀八はそう思ったが、それがいつだったのか思い出せない。桂はそのチョコを鞄にしまうと、ゆっくり事の顛末を話し始めた。 「よくよく考えて、男の俺がバレンタインに先生にチョコを贈るのはおかしいんじゃないかと思ったんです。俺は女の子じゃないし」 確かに、桂がバレンタインにチョコを贈る必要はない。桂にねだった覚えはないが、勘違いしてしまったのは事実で、それは銀八の落ち度とも言えた。 「だから本当はあげるつもりがなかったんです。たまたま高杉が押し付けたのがあって、あんなことをしてしまって」 「なるほどね」 「先生があんなに喜ぶとは思っていなかったので、どうしたら許してもらえるかと考えたんですが、かえって怒らせてしまいましたね」 「いや怒るっていうか、呆れたっていうか。つーか、だからいらねぇよ、そんなもん」 「じゃあどうすれば」 「別になにもしなくていいから」 「でも先生あんなに怒っていたじゃないですか、俺はちゃんと謝りたいんです。それにチョコで喜んでいたじゃないですか!」 「あーチョコはべつに、手作りじゃなくていいし。っていうかバレンタインじゃなくても年中無休で受け付けてるから。そうじゃなくてな」 「何ですか」 「おまえがそれ、ちゃんと高杉君に返す、っつったし、もういいって。まー実際、ちょっとは傷つきましたけどね先生」 「すみません」 「だから、先生のこと、慰めてくんない?」 「え、・・・ん」 銀八は桂をぐいっと引き寄せてくちびるを近づける。 「ね?」 桂は一瞬ひるんだ後、覚悟を決めた、という顔をした。 「はい」 桂から触れてくるのは嫌いじゃない。やわらかい感触を感じながら目を閉じる。すぐに桂が離れていったので、銀八は意地悪をしてみたくなる。テーブルにおいてあった、チロルチョコの包みを破る。手に取ったのはミルクだ。 「先生にチョコ食べさせて」 桂にそれをくわえさせる。桂は意を決したように目を閉じてから、銀八に近づいた。 甘い。 普段モテないくせに、こんなベタなことをやるなんて。そう思うのにそれに没頭している自分が滑稽だった。溶けたチョコを舐めさせるように舌を動かすと、桂の舌とふれあってどうしようもなく甘かった。キスをやめると、桂の口元がチョコでべたべたになっていたので、思わず笑った。もちろん銀八もべたべたになっていたので、桂がティッシュでふき取ってくれる。 「今度、俺の家に来たら、ケーキでも作ってやるか」 「家?」 「お前が18になったらな」 そう言ってしまってから銀八は動揺した。 「先生」 「あーもー、本当は卒業してからのほうがいいんだけどな・・・まー家来るくらいならまだ問題ねぇだろ」 桂はじっと銀八を見ている。その視線が痛くて、つい銀八は桂の頭をまたひっぱたいた。 「あーウゼェっ」 桂がぎゅっと白衣を握ってくる。その仕草に、銀八はもう一度キスをした。 そろばん塾があると言って桂が帰ってしまった後、銀八はチロルチョコをついばんでいた。何度も先ほどの桂を思い出す。家に来い、とまで言ってしまった。今年はまだ始まって2ヶ月あまりなのに、新年の抱負がすでに打ち砕かれそうだ。 いやいや、と銀八は首を振り、まだ半年近く時間はあると言い聞かせる。 こっちが振り回しているのかと思えば、逆に桂に振り回されてばかりだ。こんなに必死になるのは初めてかもしれない。 年甲斐もなく、大人気ない恋をしているからだろうか。 銀八はひとつため息を落として、そういえば忘れていた始末書の続きを書き始めた。 |
あーそう、よかったねー。
という、馬鹿馬鹿しいほど甘い話になってしまった。
ご気分悪くされた方いらっしゃいませんか〜〜〜
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