不健全な精神は健全な肉体に宿る C 羽田に着いたのは夕方だった。 長旅の疲れで、皆一様に動きが鈍く、お土産の詰まった鞄を引きずっている。お土産以外の、多くのものも一緒に。 結局昨晩、銀八はもうひとつのベッドで眠った。坂本は朝方へろへろになって帰ってきて、見回りをサボったことをひたすら謝り倒した。彼は眠る桂を見て驚いたけれど、昨晩の不健全な痕跡はすべて片付けていた銀八は、動揺することもなく締め出された桂を拾った旨を説明してやった。眠る桂の髪に坂本が無遠慮に触れるのを見て、甘い嫉妬が胸に刺さった。 ミーティングがあるので教師は生徒たちより起床時間が早い。桂を起こさず部屋に残したまま、寝不足の体と諸々の思いを抱えて銀八は部屋を後にした。 ベッドサイドの目覚ましだけは、セットしておいた。 帰りのバスでも空港のお土産タイムでも、桂は相も変わらず姿を見せなかった。昨晩のことが信じられないくらいの距離を感じて銀八はわずかに焦る。 一度だけ、出席を取ったとき、はっきりとその顔を見ることができた。名前を呼んだのに、桂は返事もせずにこちらを凝視していた。朝、部屋に置き去りにしたことに腹を立てていたのだろう。 けれど引率者にはそれをフォローする余裕もない。あわただしく交通機関の時間に追われ、生徒を追いたてる。その上、またしてもじゃんけんに負けた銀八は、空港からまっすぐ学校に戻りトラブル対応のための電話番をする、という恐ろしい仕事が残っていた。 桂は今までと同じように銀八を避け続けていた。もしかしたら桂の中では旅行前の言い付けがまだ有効なのかもしれない。なんといっても一度決めたら徹底するタイプなのだ。 「金八ぃ!!」 「いや銀な。つーか痛ぇ!」 預けていた荷物をベルトコンベアから取りあげたところで、銀八は数学教師に肩をたたかれた。 「まっことスマンのぉ〜」 坂本はどこにそんな体力が残っているのか、しきりに銀八の肩をたたきながら笑う。 「てめぇのクラスに帰れや・・・まだ仕事あんだぞ?なんでそんなに元気なんだよ」 「まあまあ、そうイライラせんと!せっかくわしがおんしの当番代わってやろうと思うちょったのに」 銀八は瞬時に普段は死んでいる目を光らせた。 「今なんつった?」 「だから電話係、変わろうかと思っての」 「ちょ、マジか?!・・・でも何、優しすぎて気持ち悪ィんだけど」 「失礼なやつじゃあ。昨日夜見回りほったらかしてしもうたきに。これで貸し借りなしにしとおせ」 坂本は屈託なく二カッと歯を見せる。普段ならイライラするその笑顔も、今は輝いて見える。 「それ絶対だぞ?いいか、取り消しとか効かねぇかんな?!」 さかもとせんせーい、と女子生徒の声がする。 手荷物を受け取った生徒たちが到着ロビーに集まっている。行きはうるさかった連中も、さすがに今はおとなしい。 「じゃー遠慮なく、頼むわ」 愛する(?)生徒のもとに駆ける同僚の背に声をかけて、銀八も愛すべきバカたちのもとへ向かった。 「よぉく聞いとけよテメーら。おうちに着くまでが修学旅行です。だから寄り道とかしねぇでとっとと帰んなさい。わかったか?」 旅行最後のミーティングだというのに、3zの生徒からは返事がない。銀八の言うことを聞けないというのではない。疲れがピークなのだ。 「返事は?!」 銀八が苛立つと、ようやく何人かの反応があった。 しかし一番大きな声で元気よく返事をしてくれたのは、よりにもよって桂だった。 いや、わかってんだけどさ。疲れてるからそういう気分にはならないと思うし。さすがにまだ部屋に連れ込むのはまずいし。 でも、ちょっとだけ自分のために寄り道してほしいと銀八は残念に思う。だってろくに話をしていないのだ。 「あとは明日一日ゆっくり休んで、あさってからはまたちゃんと学校来いよ。遅刻したら殺す。じゃー解散」 生徒達は最後の気力を振り絞って各々の帰路につく。 日曜夕方の空港は思いのほか混雑していて、コートをまとった生徒たちはあっという間に人にまぎれてしまう。桂の姿が見つけられない。 桂は足がはやい。このまま一言もかわさず、昨晩のことを流してしまいたくなくて、銀八は走った。 エスカレーターを駆け下りる。荷物が重くて思うようにスピードが出ないのがもどかしい。 ピアノの自動演奏の音が聞こえる。限定のお土産の宣伝の声。人でざわめく出発のフロア。テーマパークの大きな土産袋とぶつかって短く誤る。 長い黒髪。一目でそれとわかる、まっすぐな背中。 私鉄の駅は目の前だった。 改札を通ってしまう前に、銀八は急いで呼びとめる。 「ヅラ!」 かすれた銀八の声でも、桂は足をとめた。 改札機上の電光掲示板が、電車の出発を告げている。 「朝、いてやれなくて悪かったな」 完全にあがっている息を、ゆっくり距離を縮めながら整える。 「旅行前に、お前に言ったこと、あったろ」 電車の時刻と行き先が点滅を始める。これを逃せば快速は10分後だ。 「あれ、もう、取り消すわ」 昨晩あんなに近くにいたというのが信じられない。もうずっと見ていなかったような気がしてくる、この既視感。そうだ、図書館で初めてキスをしたときのことだ。あのときと同じように、桂はこちらを振り返らない。けれど、近付いても逃げない。 「だから、こっち見ろ」 覗き込むと、桂の目尻が少し染まっている。表情は憮然としたまま。 「先生、さっき、家に着くまでが修学旅行だって言ってましたよね」 「うん。だから、取り消すって言ってんじゃん」 「俺が逆らえないの知ってて、そうやって振り回すのは卑怯だと思います」 ひどい殺し文句もあったものだと銀八は思う。これが 天然なのだからどうしようもない。 すぐに桂をどうこうできる状況でないことが恨めしくて笑えるほどだった。 「だから悪かったって」 それでも桂は振り返らない。頬を染めたまま、電光掲示板をにらんでいる。 「電車、逃したんですが」 「うん、ごめんね」 「次まで10分もあるんですよ」 「座れるじゃん」 ふざけると、桂がようやく振り向いた。殴りかかられそうなのでとっさに体を離したけれど、その拳は握られたまま、いつまでたっても飛んでこない。 「あと10分、一緒にいられんだろ」 目を合わせて口説く。 桂は瞬間泣きそうな顔をした。その意味を図りかねた銀八の手を振り切って、桂は改札をすり抜けてしまう。 「おいっ、ヅラ!」 みっともなく叫んだ銀八を、通行人が振り返る。 桂はさっきの顔がウソのように、不敵な笑顔で銀八を振り返る。 「ローカルでいいです」 それだけ言って、桂はエスカレーターに飛び乗った。 急に強烈な喪失感が銀八を襲った。 どうして「近付くな」なんて馬鹿げたことを言ったんだろう。 あっという間に高校2年も終わりを向かえ、あいつは受験生になるのだ。少しでも一緒の時間を共有しなければならないのに。この不安定な関係を、少しでも確実にしなければならないのに。 もう桂の姿は見えない。あっという間に消えてしまった。 電光掲示板がローカル線の発車を表示する。もう桂は乗ってしまっただろう。 銀八は一人の生徒にこんなに感情を入れたことは無かったし、何より仕事に私情を持ち込まない主義だ。 しかし銀八はこの日、自分の信念を曲げることを決意した。 もう春はすぐそこまで来ている。 |