「進路希望調査」 厄介な書類もあったものだ。 それを前にして桂はさっきから考え込んでいる。 進路希望調査表。 と、すっとそれが目の前から消えた。 「何だ?進路希望調査ァ?」 高杉だ。片目を細めて紙を読んでいる。小馬鹿にするように鼻で笑った。 「こんなもんで悩んでんのかよ」 二人の周りには誰もいない。いつものそろばん塾のがらんとした教室。黒板の上の時計は九時半近い。桂はあわてて机を片付け始めた。興味が醒めたのか、高杉は調査票をよこしてくる。桂は高杉を一瞥して受け取った。 「珍しいな、お前がそんなもんで悩むなんて。・・・女でもできたか?」 目がかち合う。高杉は探るような、見透かすような目をしている。片目なので表情がつかみづらく、落ち着かない。動揺を見せないようにして、きつい視線を受け止める。 「まァ、なんでもいいけどな」 ぱっと紙から手を離し、高杉は鞄を肩に引っ掛けた。 派手な赤いシャツにだらしなく羽織っただけの学ラン。引きずって歩くので、裾が擦り切れている。けれど姿勢だけは、育ちのよさがにじみ出ている。高杉は桂に何か言いたそうな顔をしていた。自分の身に起こったことを見透かしているんじゃないかと、桂は不安になる。 毎朝、桂は最低三紙の新聞を読む。政治・社会面を開くと、相変わらず揉めている政治やら相次ぐ不祥事の見出しが目に付く。桂はずっとこの腐敗しきった政治を根本から叩きなおしたいと考えている。そのために勉強してきたし、希望大学もとうの昔に決めていて、進路調査で悩むことなんて一度もなかった。それが今、桂は調査表に何と書いたらいいかわからない。 社会面を見ていると、ふと下の週刊誌の広告に目がとまる。 『スクープ!人気イケメン俳優、グラドルとのお泊まり愛』 『元AV女優が語る、超絶マル秘SEXテクニック!!』 いつの間にか記事よりもそちらに集中してしまい、つい四日前のことを思い出してしまう。そしてまた不安になる。 皆にバレてはいないだろうか。 体には何の痕跡も残っていなかった。 それどころか、脱いだはずの浴衣はきれいに着たままで、布団はきちんとかけられていて、銀八の姿もない。 鏡を見たけれど、腹を濡らした体液も、キスマークも、何もない。ただつるんとした自分の裸が映っただけだった。 それで桂は昨晩の出来事は夢だったんじゃないかと考えた。旅の帰り際、空港で追いかけてきた銀八が何かを言いたそうで、それがその件だとは察しがついた。けれど、本当に自分の夢だったら、と思ってしまい、ろくに話もせずに銀八を振り切った。週明けの学校でも、ろくに目を合わせていない。銀八も銀八で、旅行前と同じくらい忙しそうで、結局話すこともなかった。 けれど昨日の高杉の目が気になって仕方ない。 そういう経験をしたら、わかる人にはわかってしまうんだろうか。 あれが夢じゃないとして、それが周り中にバレているんじゃないだろうか。 桜前線は、例年通りからやや早めに北上してきた。 気温は20度に満たなかったけれど、確実に暖かな気配を含んでいる空気。 この日にふさわしく晴れた空は、すこし埃っぽく霞んでいる。校庭の桜は五分咲きといったところだ。薄く色づき零れ出した花を見ると、ありきたりでも春の訪れを実感できる。この時期の匂いは独特で、何かの拍子にそれを感じると、昔この匂いとともに感じた思いやら思い出が戻ってくる。意味もなく嬉しくてこそばゆいのに、どこか切ない。 『卒業式』と大きく書かれた吊り看板が壇上にさがっている。 その下の校旗。 黒い制服の波で埋まる体育館。 胸に花を飾った卒業生は、一人ずつ名前を呼ばれるたび壇上にあがる。彼らはもう進路を決めているのだろうか。決めていない人も、決まっていない人もいるだろう。担任の教師がまた名前を呼ぶ。呼ばれた卒業生は大きな声で返事をした。心持ち緊張しているように見受けられる。 来年の今日は、桂も同じように銀八に名前を呼ばれるのだ。 そのとき銀八は何を思って呼ぶんだろう。桂は何を思い、返事をするのか。声や手はふるえてしまわないだろうか。 この関係はどうなっているのか。終わっているかもしれない。その方が正しいことは、十分に承知している。考えて桂の胸はしめつけられた。 無意識に体育館の中で、銀八の姿を探す。桂の横目に銀の髪がすぐ目にとまる。銀八はめずらしくダークスーツをジャケットまで着て、シルバーにストライプのネクタイを上まで締めている。少し猫背気味のその姿に、桂の心は奪われる。 ふと銀八が桂を見た。偶然ではない。最初から桂がそこにいるのを知っていたように、まっすぐに目をとらえてくる。銀八がどんな表情をしていたのかを確認することもなく、桂は思いきり顔をそらした。 あからさますぎる。幼く、経験値のない自分が歯痒い。視線がずっとつき刺さっている気がしたけれど、桂は怖くて二度とそちらを見ることができなかった。 進路希望調査表の締め切りは、明日の夕方だ。 職員室の机には、採点をサボったままの小テストが山積みになっていた。肝心の本人の姿はない。どうしたものかと考えていたところで、うしろから肩を叩かれ、桂はびくんと体を跳ねさせた。 「金八かあ?」 振り向くと、エリザベスのマグカップを手にした坂本が、いつもの笑顔で突っ立っていた。 「ヅラは偉いのう、ちゃあんと届けてくれるんだがか」 「ヅラじゃない桂です」 職員室のくたくたに煮立った薄い珈琲を一口やって、坂本は人懐こい笑みで桂の頭をぽんぽん叩く。 「金八じゃったら、準備室にいちゅうよ」 「そう、ですか」 本当は顔を合わせたくなかった。けれどこう言われてしまえば机に置いていくわけにもいかない。丁寧に坂本に礼だけ言って、仕方なく準備室へ向かう。 桂の手には、全員分の進路がある。随分とやっかいで重い提出物だ。結局、今までと同じ大学名を書いておいた。他のクラスメイトの進路は見ていないけれど、果たしてみんな本当に決めているのだろうか。決めていたはずの桂は、担任教師のせいで今こんなに悩んでいるのに。 息を軽く吸って止め、扉を開ける。 銀八は机で転寝していたようで、頬杖をついたまま眠そうな瞼をあけた。 「先生、調査表を集めてきました」 「あー、もらうわ。そこ置いといて」 銀八が顎で書類だらけのテーブルを示した。仕方なしに適当に書類をまとめて隙間をつくる。 「ねー」 「はい」 「何で避けんの?」 調査表を揃えていた手がとまる。また視線が突き刺さっていて、桂は顔をあげられない。 「避けていません」 「避けてんじゃん」 ぎっと椅子が軋む音がする。キャスターが動く音も。銀八が本格的にこちらを見据えるのを感じる。 「この前のこと、やだったか?」 一番触れてほしくない話題なのに、銀八はめずらしく直球を投げてきた。 「いいえ、それは違います」 「じゃあ何で?何かした?」 「いえ、そういうんじゃなく。ひとつ、聞きたいことがあるんですが」 「何」 「あれは、やっぱり夢じゃなかったんでしょうか」 「はァ?!なんで?!」 銀八は心底驚いて、落ち着こうとしたのか手元のいちご牛乳を啜った。 「だって、起きたら先生はいなかったし」 「あー・・・、あれは、悪かった」 「浴衣もちゃんと着てたし」 「坂本が戻って来たからな」 「何でキスマーク付けてくれなかったんですか」 「ブハッ!!」 銀八は飲んでいたいちご牛乳を吹き出した。ゲホゲホと激しく噎せる。 「おまっ・・・、っ痛!!ハナに入っ・・・イテェェ!!!」 「大丈夫ですか?」 桂は心配になって覗き込んだ。鼻からいちご牛乳が出ている。 「大丈夫じゃねーよアホ!!!何てこと言い出すんだお前ェェ!!」 銀八が盛大に怒鳴った。ティッシュを引き抜いて差し出すと、銀八は乱暴にひったくって顔を拭い、鼻をかむ。 「あのなー、」 話出しながらもまだティッシュが欲しそうだったので、桂は箱ごとティッシュを渡す。ずれてしまった眼鏡を直して銀八は桂をにらんだ。 「普通ね。常識ある大人は、むやみやたらにそんなもん付けるもんじゃねーの」 「そうなんですか?」 「そーなんですよっ」 「キスマークってかならず付けるものだと思ってました」 「アホか。そんなもん、やたらに付けまくるのはガキだけだ」 桂はまじまじと銀八を見つめる。 「何?ガキだとか言いたいわけ?」 「いえ。・・・つけてくれませんか、キスマーク」 桂は銀八とのことが夢じゃないという証拠が欲しかったのだ。 銀八は案の定固まった。 あからさまに嫌そうな顔をしてみせる。けれど桂の目を見るとふっと顔がゆるみ、あきらめたように笑って立ちあがる。 「座れよ」 ソファを指す。桂は大人しく言いなりにした。銀八はだらしない教師ではなく、大人の男の顔をしている。 「先生」 「しー・・・」 ひとさし指で桂を黙らせて銀八がソファにぎしっと音をたてて座った。微かな煙草の匂いがする。 学ランのホックは自分で外した。銀八はその下のボタンを外して、シャツに手をかける。心臓は早鐘を打って、緊張と期待で手先がしびれてくる。銀八は4つ目のボタンを外したところで桂の髪を撫でた。シャツを引っ張って、鎖骨の下にくちびるが当てられる。やわらかくてあたたかく、ぞわっと鳥肌がたった。必死で声を抑える。 つっとくちびるが動き、舌で鎖骨をなぞられる。鎖骨の右下あたりにたどりついて、銀八はそこをキュっと吸った。 「あっ、!」 思わず声が出てしまい、慌てて手で口を塞ぐ。銀八は食むように何度もそこに吸い付いた。舌で舐められて、また最後に吸われる。ものすごく気持ちが良くて、桂はふるえた。 銀八が口を離し、跡を付けたところ指でぬぐった。桂を熱っぽく見て、何も言わずキスをしてくる。舌が入ってきて、何度も吸い付かれた。桂は必死に舌を動かして銀八の背にしがみつく。銀八はあの夜したのと同じように桂の髪をかきまわし、長いことキスをした。いちご牛乳の味がして気持ち悪い。 けれど、とても気持ち良かった。 「キスマーク付けたから、見てみ」 鎖骨を見ると、吸われたところが妙に赤くなっている。 「見せびらかすんじゃねーぞ、俺が死んじゃうから」 銀八はあっさりソファから立ちあがって、煙草に火を点ける。狭く換気の悪い室内に、ふわっと煙が漂った。桂は上手く動けず、のろのろとシャツを直して、また書類を片付けはじめる。 そこでガラっと扉が開いた。 「金八ィィっ!!まずいことになっ・・・あ、ヅラ、来とったがか」 「うっせーな、何だよ、いきなり入ってくんじゃねーよ」 坂本だった。銀八はいつもの面倒くさがりな教師の顔に戻っている。そのポーカーフェイスに桂は舌を巻く。 「どうしたぁ?元気がないのー。まさか銀八に説教ばされちょったがか?」 「いえ、違います」 「人聞き悪いこと言うんじゃねーよ」 何よ、何の用?いや進路希望調査、今日までじゃったの忘れちょってのー。知るかバカヤロー、来週でもいいだろ別に。 二人の会話に、何となく入りづらくていたたまれず、桂は慌てて鞄を取り立ちあがる。 「じゃあ、帰ります!」 「おぉ、気ィ付けてなあ〜」 坂本が大袈裟に手を振った。銀八がこちらを振り向く。坂本から見えない位置で、いたずらっぽく桂に笑いかけた。桂は何とか平静を装って、丁寧に一礼して準備室を出た。 鎖骨の下に付いた跡。いつまでもくちびるの感触が残っている。 銀八が好きだと、桂は強く思う。 桂がいなくなった準備室。 坂本が桂を見送って、「ヅラはかわゆらしいの〜」と笑った。 「そぉ?」 銀八はそっけなく言って煙草をふかし、テーブルに置かれた調査表を手に取る。 「で、おんし、ヅラに何しとったんじゃ?」 胡散臭いサングラスから覗く目がにやりと笑っている。 「・・・何も?」 銀八はあくまで冷静に答える。しばらくさぐり合った後、坂本は笑った。 「なら、ええんじゃけんど。・・・なんかする前は、煙草やめた方がええのぉ」 はっとして銀八は坂本をにらむ。 コイツ。 「残り香、気ィつけちょれ」 アッハッハ。 坂本は笑って準備室を出て行く。 一人残された銀八は、思わず頭を抱えた。 |