春の乱 もっとも敬愛する松陽が捕らえられたとの報が入ったのは、桜の蕾が膨らんできたころだった。 騒然となった塾生をなだめたのは桂と高杉だった。 二人は心配する者をなんとか宥めて賺し、しばらくの間、塾の門扉を閉めることにした。 三日三晩、二人は情報を集めるために方々に奔走したけれど、その間、銀時が姿を見せることはなかった。 「先生を助けに?」 報せが入って三日目の晩、塾の講義室の薄暗い明かりの中で書き物をしていた桂は、高杉の言葉に身を硬くした。 「そうだ。俺たちが行くしかねェからな」 高杉はこの不幸な報せを受けたときから、ずっとこの考えをめぐらせていたのだ。 「しかし・・・下手を打つと、俺たちも逆賊として捕らえられかねんぞ」 桂が声を低くする。 「いいじゃねェか、逆賊上等だ。なぜ先生が捕らえられなきゃならない?俺には理解できねェ」 「高杉、お前の気持ちはよくわかる。だが、急いては何もならん。俺たちをかばい、先生がもっと重い罰を受けることも考えられるぞ」 桂は慎重なところがあった。剣術においても学問においても、隙を作ることを極端に嫌う男だった。高杉にしてみれば、それがもどかしい。 「心配ねェよ、俺はずっと考えてはいたんだ、俺にしちゃ珍しいくらい慎重に考えてんだ」 「だが・・・」 桂の表情は硬いままだ。しかし桂も松陽を救いたい気持ちがあるのか、高杉をあしらうようなことはなかった。 「俺たち二人なら、見つからずに何とかできる。早ければ明日にでも」 「では、銀時も連れて行こう」 桂の口から出てきたのは、高杉が今一番聞きたくない名前だった。意気込みに水を差され、高杉は機嫌を損ねる。 「駄目だ」 高杉は冷たく言い放つ。 「何故だ?銀時は腕が立つ。それに、もしものことを考えれば三人いたほうが頼りになるだろう」 「銀時は目立つ。人が多ければ多いほど、見つかる危険が高くなる。・・・それに、銀時は最近ろくに塾にも来てないんだぜ」 「・・・それには、きっとあいつの事情があるのだ。今回の件に関しても、ひとりで抱え込んでいるのかもしれん」 お前、銀時を信用しすぎてんじゃねェのか。 思わず喉をつきそうになった言葉を、高杉はなんとか飲み込んだ。 冬も終わりに近付いてきた頃から、銀時は塾に顔を出さなくなった。遊び歩いているとか、一人で修行をしているとか、無責任な噂がいくつか流れていた。しかし本当に、高杉や桂とも顔を合わせない。しかしそんなことは高杉にとってはどうでも良いことだった、いや、むしろ喜ばしいこととさえ思っていたのだ。 「そうかもしれねェな。確かにあいつなりの事情があるかもしれねえ。だからこそだ、桂。あいつは先生に多大な温情がある。だからこそ情が強すぎてしくじるかもしれない。そうなったらアイツはどうなる?」 高杉は慎重に言葉を選ぶ。 どうすれば桂が納得するのか。どうすれば桂にこのわがままを通すことができるのか、高杉は長く一緒にすごす間にその術を身につけている。 「そう、かもしれんが・・・」 「なあ桂、よく考えてみろ。俺たちは親の後ろ盾がある。だが銀時はどうだ?後ろ盾は先生しかいねェ。その先生が捕らえられたとあっちゃあ、なにかあったとき、一番立場が危うくなるのはアイツだ。それに姿を見せないのも、ふさぎ込んでるのかもしれねえ。そんなアイツを、これ以上刺激するような真似、俺にはできねェ」 桂の目が揺らぐ。 高杉は桂に言うことを聞かせる最後の呪文を唱える。 「わかるだろ、桂。・・・銀時のためだ」 「・・・わかった。この件は銀時には伏せておこう」 覚悟を決めたように目を伏せた桂を見つめる高杉のくちびるの端には、薄く笑みが乗っていた。しかしその目は冷たく冴えていた。 事は急いだほうがいい。 次の日、夜が来る前に、高杉と桂はひそかに準備をして、二人だけで闇にまぎれるように萩の城に忍び込んだ。 三十月は夜を照らすにはあまりに細かった。雲がかかっているのか、星の明かりさえも少ない、絶好の夜。 実践で刀を使うのは初めてだった。腰におさめた刀の重みがやけに存在を主張する。心臓は早鐘を打っているけれど、気分は高揚していた。 高杉は萩の警備についてよく知っていたし、城の内部についてもある程度の知識があった。見つかればどうなるかわからない。最悪の場合は死罪、家の取潰しもあり得る。そんなことを考え、肩が重くなるのをぐっと我慢した。 桂は作戦を入念に確認した後は、一言も発しなかった。 思ったよりもずっと高い城壁の内側にもぐりこんだあと、二人は獄舎を目指す。護衛の詳細な位置までは読めない。見つかれば多勢に無勢だ。いくら桂と高杉の剣の腕が優れていようと、状況は極端に不利だった。 気配を殺して、相手の気配を探って慎重に進む。足音ひとつにも気をとられ、まともに動くことができない。奇襲作戦を好む高杉にとっては、これは拷問のようなものだった。だが松陽の身を案ずれば致し方ない。 二人ははやる気持ちを抑え、獄舎にむかう。 獄舎の前には、当然のように見張りが立っており、高杉は考えていた陽動作戦を実行に移した。あらかじめ用意しておい煙幕を焚き、それを獄舎の裏側に放り込む。 みるみるうちに立ち上った煙幕に、見張りの大男があわててその場を離れた。 その隙に二人は入り口に近付いた。高杉が細い針金で鍵をこじ開ける。桂は高杉に目配せして、その間に脱出のため高い塀に縄をかけた。 暗くて手元の鍵穴が見えず、高杉は思わず舌打った。闇に慣れてきた目ではあるけれど、焦りで何度も手を滑らせた。 がちゃんと重たい音がして、鍵穴からの反応がある。はやる手で高杉が鍵をはずそうとしたときだった。 「何をしている!」 振り向くと、先ほどの大男が走ってくるのが見える。 まずい。 高杉はとっさに逃げるべきだと判断した。が、この中に松陽が、という考えがよぎってしまったのがいけなかった。 扉を開けようとしたが、汗で手が滑り、うまくいかない。見る間に高杉と、彼を連れに戻ってしまった桂は囲まれた。 もう終わりだ。 高杉は絶望する。扉一枚隔てて先生がいるのに。 二人には藩に刃向かう意思がないことがわかり、また江戸で捕えられた松陽の弟子で、面会を求めていたということがわかると、幸い二人の処刑は免れた。 しかし進入した事実は確かで、また計画的だったこともあり、二人は拘留された。しかし、二人が捕らえられた獄舎のどこにも松陽の姿はなかった。 侵入した賊の正体が地元の名士の息子たちだとわかると、上はこの事件をもみ消した。 幸い、何もしないうちに捕まったので、事件は内密に処理され、二人は帰されることとなった。だが、謹慎は免れない。高杉と桂は当然のように引き離され、話をすることはままならなかった。 高杉は案の定、父からひどい叱責を受け、一箇月の謹慎を言い渡された。松陽の思想について、彼の父はもともとあまりいい顔をしていなかったのだ。とうとう松陽の教本も取り上げられ、昔の封建制度の教えの書かれた本ばかりを与えられた。 桂に逢うことはおろか、外出も許されず、高杉は憔悴していった。松陽はどうなったのだろう。桂はどうなったのだろう。 彼は今回の件で、自分の無力さを思い知った。松陽を救うのはもう自分たちが小さな抵抗をしたところで無駄だということも。もっと大きな力が要る。 高杉は狭い独房の中で考えた。こんなところに留まっているべきではない。一刻も早く動かねばならない。そうして考えるうちに、何度か耳にしていた「攘夷派」の存在を思い出していた。自分たちこそ、先陣を切ってそこに飛び込むべきだ。 常であれば窓から差し込んでいる月の光はなかった。春めく風も感じられない、不気味なほど静かな夜。 この檻を出たら、と高杉は暗月に誓う。必ず、松陽を取り戻すと。そしてその発端となった天人を必ずや排除すると。 彼の心を移すように、闇が口を開いていた。 |