盃 前編 「お前はもう元服した身。これからはこの家を背負い立つ身だ。吉田を救おうというお前の気持ちはわかるが、そのために一族を路頭に迷わせることはできぬ」 「はい」 「心苦しいが、辛抱せよ」 そう言った父の目に苦いものが浮かぶのを、桂はぐっと唇を噛んで聞いた。その苦い表情が頭桂の脳裏を離れない。憔悴した母の顔も、体を気遣う家の者の顔も。 それでも桂は決めていた。すべてを捨てて家を裏切り、ひいては脱藩することを。 あの日捉えられた高杉と桂は、底冷えのする陰鬱な牢に入れられた。湿った黴と排泄物や腐った食べ物の異臭が充満し、月どころか星の明かりもない。人とも獣ともつかぬうめき声がして、死者の怨霊が閉じ込められたまま、牢につながれている。 こんなところにいては、狂ってしまう。 桂は何より松陽の身を案じた。このようなところにずっと閉じ込められているのだと思うと、心がざわめいた。 この小さな国に住む者は、みな決して恵まれているとはいえない事情の下で生きてきた。松陽はそこに光を与えた。小さくても、「無知」という闇を照らす、確かな光を。読み書き算盤だけではない、思想や思考といった知識は、偉大な力だった。 天人が来てからというもの、いやその以前から、世は徐々に混乱を見せ秩序が乱れ始めていた。慎ましやかに暮らすという人々の願いが崩れている。市政のささやかな暮らしを守るためには、戦わねばならないことを、桂は実感していた。各地で頻発する天人との紛争を機に、松陽の説く「攘夷」の思想に基づき剣を取った集団のことも、耳に入っている。もはやとるべき道はひとつだった。 桂は何度も心の中でわびる。もうすべてを捨てる覚悟はできた。 ただひとつだけ、捨てられないものがある。 眠たそうな目と、くせのある綺麗な銀髪。 あれを連れて行かねばなるまい。何よりも松陽の帰りを、ずっと待っているのだから。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 謹慎が明けて三日目、桂は久方ぶりに外の空気に触れることができた。 青々とした葉桜が風に揺れる。風は木々を揺らしたあと、そのまま高く結い上げた桂の髪を揺らした。 今年は桜を見ることができなかったことが少々悔やまれる。 川沿いのなだらかな道を歩く。 最後に桂が私塾を訪れてから、一月近くのときが経っていた。陽は長くなり、夕方だというのにまだ明るい。西日が射した川の水面がまぶしい。 桂がこの穏やかな風景を見ることができるのも、これが最後かも知れない。それで桂は、そのすべてを身体に刻み込む。頬に撫ぜる滑らかな風を、陽を受けて鮮やかに透ける緑を、踏みしめる草、土ぼこり。丸くなった石ころを、満ちる静かな生命力を。 たどり着いた塾の門は閉められていて、人気が無かった。皆で手入れしていた庭木は伸び、閉めた門には埃がうっすら積もっている。謹慎が明けて間もないので、あまりに人に気取られたくなかった桂は、ほとんど知られていない裏口に回った。裏の扉には埃が積もっておらず、鍵が開いている。桂はいぶかしみながら入っていった。 講堂はがらんとしている。血が通わなくなったせいで、この時期なのに床は冷えたままだ。机にも教壇にも埃が積もっている。いつからか花を活けるようになった花瓶には、春先に摘んでもらった花がしおれて入ったままだった。 ふと空気を震わすひゅん、という音が桂の耳を掠め、反射的に耳をそばだてて音を探す。 廊下に出ると、身体がその正体に感づいているように、足は迷わなかった。廊下の突き当りを左に曲がる。その先。 扉は開いている。 銀時の背中があった。 銀の髪が、夕日に染まる。 力強く竹刀を振るうその、逞しい腕と肩。 滅茶苦茶だった太刀筋は洗練されて、迷いが無い。引き締まった胴は袴の上からでも良くわかる。 首筋に汗がひかる。 桂は言葉を失い、その後ろ姿に見蕩れた。 いつも眠たそうにしていた。柔らかい癖毛が触れるたび、くすぐられている気分になった。わがままも沢山言ったし、怠けていたし甘えたれだった。 いつの間にか銀時は男になっていた。 忙しい息遣いと、床を響かせる音。変わらずの裸足は、汗できゅっと滑る。 扉に手をかけた弾みで、かたんと音が鳴った。そこで銀時が肩を揺らし、ゆっくりと振り返る。 「……ヅラ」 驚いた表情にはまだあどけなさが残っていて、桂はなぜかほっとする。 「ヅラじゃない、桂だ」 「お前、もう外出られんの?謹慎だって聞いてんだけど」 「もう解けた」 桂は履物を脱いで、光沢のある板張りに足をすべらせた。銀時のいぶかしむ視線を感じながら、壁の竹刀を手に取って向き直り、構える。 「銀時、何を賭ける?」 「…じゃあ、お前ん家の、カステラでいいぜ」 「では、俺はおまえ自身だ」 「は?」 「俺が勝ったら、お前をよこせ」 「…何、口説いてんの?」 銀時がふざけて眉を寄せ、笑った。桂はふっと挑戦的に笑って返す。 「…そうだ」 「じゃあ、負けらんねぇな」 銀時が竹刀を構え、視線が絡む。 瞬間、二人は動いた。 上段から振り下ろされる銀時の太刀筋。それを横にかわして回り込む。床が鳴る。銀時が身を引いて間合いを取る。 見つめられている。全身が緊張する、この昂揚感。銀時は桂の些細な動きも見逃さない。間合いをはかる。銀時の口の端が上がった。 目に付かぬ速さで切り込まれるが、桂はそれを読んでいた。後ろに下がると見せかけて、一歩で銀時に詰めたが、その剣を打ちとめられる。がっと激しい音が響いて竹刀が交わり、瞬時にまた離れる。激しい動きと緊張なのに、不思議と汗は引いていた。 心が冴え渡る。銀時と、桂と、あるのはそれだけだ。 対峙しているというのに、ひとつに溶け合っていくような強烈な一体感。 桂は冴えた頭で銀時の癖を思い出す。こうして交えるのは久々だったが、いつも見てきたのだ。そのくらいは容易に思い出せる。左が甘い。すると銀時が視界から消える。下か。 銀時は一瞬沈んだかと思うと、その体勢から勢いよく斬り込んできた。居合いのような速さ。しかし桂は冷静だった。跳んでそれをかわして後ろに回りこみ、そのまま銀時の首に竹刀を突きつけ床に押し倒した。だんっ、と床が揺れる。 「…ってぇ…、お前、すっげぇな、よくそんな、軽業みてーな」 「お前、何を油断していた?」 「はっ、してねーよ…てめーは容赦ねぇな」 だから嫌だったんだと、銀時は困った顔で笑い、見上げてくる。 組み敷いた体は熱く、頬は紅潮している。銀時は、負けたというのに嫌にまっすぐな目をしていた。不思議な色の目が、夕日を反射して宝石のようだ。桂はこの目が欲しくなる。 「銀時、約束は守ってもらおう」 「賭けの話?」 「そうだ」 桂は上半身だけ起こした銀時の眼前に、握った竹刀の柄を差し出した。 「銀時、この腐った国を立て直すため、俺と共に剣をとらんか」 確かな力を宿して見つめ返してきた銀時の目に、桂は身震いするほどの一体感と恍惚を覚えた。 後に振り返れば、桂はこのときからもうずっと、銀時に焦がれていたのだった。 つづく |
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