夜を行く






どうにも寝つきの悪い夜がある。
胸の奥からせり上がってくる不快感が、明け方まで高杉を苛むのだ。不快感に伴って、空虚な妄想や根拠もない不安の虚像などが次々に視界をかすめる。
高杉はそんなとき、決まってふらりと夜を行く。
夜のつめたい水底を歩いていれば、正体のつかぬ妄想も、現実的な問題として輪郭がはっきりしてくる。冴えた頭で冷静に具体的対処を考えれば、自然と不安の虚像が消えていった。

本陣の見張りをかいくぐるのは、彼にしてみれば容易であった。
冷静になってみれば、その警備の甘さを指摘すべきであったが、あいにく彼は夜の散歩を害されたくなくて、それをしなかった。そう、高杉にはときおり、こういったところがあったのだ。
古い山寺は冷え込んでおり、石垣を抜けると闇が満ちた林が鬱蒼と繁っている。風避けにひっかけた陣羽織の裾が、からっ風に翻って何度もはためいた。山の中腹は、岩肌と木の根に覆われた急斜面が続いている。

それにしても今夜は明るい。満月が近いからだ。晩秋の空は、星が地表に降ってくるようで美しい。だが高杉に言わしめるならば、美しいというよりは憎かった。あの美しく見える天空より、忌まわしき者共が降りてくるからだ。
昼間は見事な紅葉を見せる美しい景色も、この季節の夜には得体のしれない闇に染まった。こんな夜に身を任せていると、不思議な高揚感と落ち着きを感じて意心地がいい。
と、高杉はそこで見慣れない影を見つけた。

「そこにいるのは誰だ?」

かけられたのは、よく耳に馴染んだ低くやわらかい声だった。

「…よォ」

桂だった。高杉は、桂がひそかに本陣を抜け出したことよりも、桂にも眠れぬ夜が訪れることに驚いた。

互いに抜け出した件については咎めず、二人はほとんど無言で歩いた。高杉はこういうときに群れるのは好きではなかったし、おそらく桂もそうだっただろう。群れては上には立てない、せいぜい使われる側に回るのみだ。
ときおり木枯らしが吹いた。桂は夜にとけた暗い羽織の襟元をにぎっている。その指先と表情のない顔だけが、ぼうっと白く浮かんでいる。聞きたいことはあれど、後ろめたさもあって高杉は黙っている。

結局ろくろく考え事などできぬまま、寺の入り口までぐるりを回った。寝床に戻るとも、戻らぬとも言わなかったが、これ以上外にいる気分ではなかった。
立てている守衛に見つかっては厄介だ。音を立てずに門をくぐる。ふと桂が足をとめた。いぶかしんで高杉もそれに倣うと、上から声が降ってきて振り仰ぐ。

「だから、わしゃ、宙にいく」

「宇宙にデカい船浮かべて、星ごとすくいあげる漁をするんじゃ」



坂本は銀時を宇宙へ誘ったが、結局なんと返事をしたのか、下からではわからなかった。桂を盗み見たけれど、彼は驚かなかった。少なくとも高杉の目にはそのように映った。もしかしすると桂はもう、坂本の思惑を知っていたのかもしれない。丸い目には何も映らず、ただ透きとおりすぎて真っ暗だ。
そんな目をするのか。
高杉はそれを自分に向けられたように感じた。義勇軍の隊士を募って半年が過ぎ、高杉はひそかにこの義勇軍を独立させようとしていたからだ。この冬には、と思っていただけに、間の悪さに思わず舌打ちした。すると、それに反応した桂がこちらを見つめてきた。

もしかすると、桂は高杉が出ていこうとしていることにも、とうに気が付いていたのかもしれない。
うしろめたさをごまかしたいのか。それとも、底の見えない澄んだ目に魅入られたのか。高杉はゆっくり桂にくちづけた。初めてふれた桂は、夜のせいか冷えきっている。そのとき、桂は目を伏せていたのか、どんな風に彼の行為を甘受したのか、瞼を落とした高杉が知ることはない。

別に、恋していたわけではなかったように思う。
慰めてやるつもりもさらさらなかったし、欲情したわけでもなかった。そんなことをしても温まるものは何もなかった。ただなんとなくそうしてみただけで、その行為に意味を与えるつもりもない。ではその理由は何か?
理由なら、いっそこちらが教えてほしいくらいだ、彼はそう思った。

門の上からは、もう声も聞こえてこない。夜の天空一面にちりばめられた星も、まったく目に入らなかった。裾を翻すつめたい風。こんなつめたい風の吹く日は、それになびいて揺れた、桂のつめたい髪が思考のはるか奥で蘇る。


随分長いあいだ思い出すこともなかったのに、つい最近になって、やたらと昔のことばかり思い出された。死期もいよいよ近いのかもしれないが、それは大した問題ではない。夜ごとに浮かぶそんなくだらない過去の断片のほう、がよほど大きな問題だった。
それで杉は、またひとり夜を行くのだ。

もうこの地を訪ねることはないはずだったが、何が楽しいのか、高杉は夜に沈んだ江戸の町を歩いた。
今夜は月の明かりがまぶしい。街頭と月の明かりで、いくつも影ができては消えていく。表通りから外れると、都会であっても静かなものだ。不思議とネズミ一匹見当たらない。その不気味な静けさは、彼を静かに興奮させた。興奮といっても、血を沸騰させるものではなく、むしろ彼のざわついた思考を冷静にさせる類のものだった。研ぎ澄まされる感覚に既視感を思える。その奇妙な感覚すら懐かしかった。

そのとき、高杉の司会を何かがかすめた。
小さな川にかかった粗末な橋の向こう側、気配を殺しながら歩く姿がある。隻眼でもすぐに感じることができた。
桂。

最後に顔を、いや刀をつき合わせたのが、ちょうど一年ほど前のことだ。
あの時点では短く刈られていた髪も、すっかり元のとおりに戻っており、傷つけられたことなどない風情でなびいている。それがあまりにらしくて、知らず口の端が曲がった。彼は川野対岸を歩ている。高杉には気づいていないようだった。ふと、高杉の脳裏に、かつてただ一度だけしたくちづけが浮かぶ。

あのとき、なぜあんな幼いくちづけしかしなかったのだろう。

そして高杉は、桂をとらえる妄想に駆られた。いっそ逆でもいいかも知れぬ。ただあの硝子のように透きとおった目を伏せて、もう一度くちびるあわせてみたい。そのままくちびるを割って、舌を舐めて、噛んで、そして。
束の間の妄想はあまりに甘美で、熱など忘れていた彼の胸をじりじり灼く。だが何の足しにもならない。あのときの桂の感触など、とうに忘れた。夢に出てくれるなら思い出せもするだろうが、桂が夢に出てきたことはただの一度もなかった。
ただ橋の向うの姿を眺めていたとき、また例の嫌な傷みと痒みが体の奥からせり上がってきた。粗末な欄干を支えにしながらも、不快感をやり過ごしたくて、中毒になって久しい煙管をやった。
桂の姿はもう捉えられなかった。かわりに川の音だけがやけにはっきり耳に届く。

そうか、こいつァ三途の川か。
あちら側とこちら側。渡ってしまえば、もう二度と戻ることなどできぬのだ。












いつもより遅くなった仕事の帰り、桂はいつもの橋を渡った。粗末な橋を過ぎれば、住処は近い。川からはつめたい風が吹いて、桂の髪を揺らしていく。

橋を渡りきったとき、ふとどこかで嗅いだことのある、甘く苦い香りがかすめた。そのとき風がきものの裾を強く揺らしたので、桂は一瞬何かにとらわれた。その既視感に立ちすくむ。
何の香りだったか、あるいは誰の香りだったか。懐かしい香りは桂の唇にそっとふれて、その感触をわずかに残すばかりだった。






おしまい

きらすきにあわせようと思って間に合わなかった一品…
最近、わたしは微糖ブームなのでしょうか…???(知るか!)
これで高杉が桂だと思った人が別人だったらめっちゃ笑える…
いやいや、そんなことはないですよ。
というか…タイトルからしてなんか絶対どこかの何某かと被っていそうな気がします。被ってたら申し訳なくて切腹ものです…

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