RTされた数だけグラアン書く(たぶん4/4-U)】 夕方から、とうとう雨が降りだした。激しくはないが、春の雨はパリをやさしく包みこむ。あたりはすでに暗い。夜と雨がパリから色彩と光を奪っている。 もうすぐ午後八時を回る。時計の針がアンジョルラスの足を急がせていた。彼は石畳の道をずっと行く。敷石の隙間にたまる雨水が撥ねて、ときおりブーツを濡らした。 サン・ミシェル広場にさしかかったときだった。 黒い傘で狭められた鉛色の視界に、突然、目にあざやかな白が飛びこんできた。 広場の隅に少女が佇んでいる。 破れた膝丈の裾は、長いこと彼女が服を新調していないことを物語っている。まだ十を数える前の、華奢な腕いっぱいに、白い花が抱えられている。そして、からっぽのちいさな籠。こんな時間に、雨の中で傘もなく、少女は花束を売っていた。 貧しい少女の白い花は、アンジョルラスの網膜を焼き、かすみがかった思考をつらぬき、分厚い壁を砕いた。 彼はまばたきもできずにその場に立ちつくし、欠けた記憶が逆再生されて戻ってゆくのを感じていた。記録をつけたこと、記録に残らぬことのすべてが、あざやかに脳裏によみがえり、怒涛の流れとなって彼の意識を飲みこむ。 そのとき、八時の鐘が鳴り響いた。 アンジョルラスのノートには、ひとつだけ、書かれていない事実があった。 皆が帰った寂しいミュザンに残る彼のもとに、毎晩来客があったのだ。客はグランテールだった。彼は皆と一緒に帰ったあとで、もう一度足を運んでいたのだ。 そして、アンジョルラスに夜毎に愛を告げた。 だがアンジョルラスはからかわれていると思っていたから、そのたび冷たくはねつけた。翌朝になれば、愛の言葉などなかったことになる。そうあしらうのだが、グランテールは決まって「だからこそだ」と言った。覚えてないから良いんだ、と。何が良いのか、まったく理解できなかったが、あまりにしつこいので、結局毎晩彼の言いたいようにさせるのだった。 酒飲みの言葉は真摯だった。ほとんど耳を貸さぬアンジョルラスに、彼の実直さや信念をつらぬく姿がいかに素晴らしいか、どんなに光をあたえるかについて語ってみせた。 けれど非情なことに、彼はグランテールの愛の告白を一切記録に残さなかった。この男が本気で自分を愛しているとは到底思えなかったのだ。 なぜか? それは夜の記憶を失っていたからだ。夜毎捧げられる言葉がすべて消えていたからだった。アンジョルラスの中で、彼はいつまでもただの不真面目な酔漢でしかなかったのだ。この瞬間までは。 花の色を目にした瞬間、アンジョルラスにはすぐにわかった。 グランテールはこの少女から花を買ったのだ。きっと、酔っぱらって上機嫌で、そして彼女を憐れんだのに違いなかった。そしてその無垢な花をアンジョルラスに捧げた。皮肉屋で、何も信じず、神さえ否定しかねないあの男は、自分のためではなく、アンジョルラスのためでもなく、ただこの貧しい少女のために、アンジョルラスに花を贈ったのだ。 彼が皮肉屋で、いい加減で、酔ってでたらめな演説をぶちあげ、そしてとても仲間思いであることを思い出した。 見つめる視線が優しいことを思い出した。 ひたむきに言葉を紡ぐ声を。 困ったような笑顔も。 その笑顔が、大理石で覆われた胸をつらぬいた。 アンジョルラスは、少女の花束をすべて買った。値段は聞かず、財布に入っていた5フランをそのまま籠に入れた。さらには「チップが足りない」と、自分の傘を持たせてやった。おどろいて茫然と見上げる少女に、無意識で微笑みを残して、雨の中を歩きはじめた。花はすっかり濡れていたし、雨はまだ続いて、容赦なく彼に降りかかる。それでも、ちっともかまわなかった。 ずぶ濡れのアンジョルラスがミュザンの二階に顔出したとき、皆はおどろいて凍りついた。何があったのかとマリウスが声をかけたが、応えはなかった。 彼は部屋を見わたし、グランテールの姿を見つける。グランテールは丁度椅子からずり落ちたところだった。彼は深く息を吐くと、グランテールのもとへ早足で歩み寄り、抱えた花束を差し出した。白い指やブロンドの細い毛先から、雫がいくつもいくつも落ちて、小さな音をたてる。 「……どうしたんだい?」 グランテールは声を出すのもやっとのようだった。差し出された花束とアンジョルラスを交互に見つめ、目を丸くした。 「君にこれを贈らなければならないと、ノートに書いてあった」 「なぜそんなことが、君のノートに?」 「覚えていないから、わからない」 アンジョルラスは嘘をついた。 状況を飲みこめず困惑するグランテールに、彼は震える手で花束を押しつけた。そして、あっけにとられる同志たちには見向きもせず部屋を飛び出す。 けれど、ミュザンを出たところで、あっけなく彼の腕はとらえられた。 「待ってくれ!」 腕を強く引かれて立ち止まる。振り向かなくても、それが誰なのかわかっていた。 あわてて追ってきた彼の息は少し上がり、くせのある黒髪はとっ散らかっている。上着のボタンはだらしなく外れ、タイもほどけていた。片手にはあのちゃちな花束がかかえられている。 腕をつかんだ力は強くない。おどろきと切実さの混じった強い視線こそが、彼をとらえているのだ。視線が交錯した瞬間、アンジョルラスはたまらずにうつむいた。 「ずぶ濡れじゃないか、俺の部屋に寄っていくといい。着替えくらい貸すよ」 アンジョルラスは戸惑った。自分で自分がわからなくなり、俯いたまま首を横に振ることしかできない。 すると、突然アンジョルラスの視界が塞がれた。グランテールが上着を頭からかぶせたのだ。 「このまま放っておけるか。頼むから着替えてくれ」 驚いて顔をあげると、例の困ったような優しい視線とかち合った。彼の黒髪はしおれ、雨粒が降りかかるから、瞬きを繰りかえしている。その睫毛からこぼれる雨粒は涙みたいだった。 アンジョルラスは生まれて初めて何かを美しいと思った。その雫にふれてみたくて、ほとんど無意識に手を伸ばす。 「アンジョルラス?」 掠れた声が鼓膜をくすぐる。 「やめてくれ、アンジョルラス。……そんなことされたら、俺は」 アンジョルラスは答えなかったし、背に回されるグランテールの腕を止めることもなかった。白く長い指が頬の無精ひげに触れる。 「……夢をみてもいいのかい?」 グランテールが囁く。アンジョルラスは肯定も否定もしなかった。彼にはグランテールの言葉の意味が良くわからなかったし、言うべき言葉も見つからなかったからだ。 彼は自分の感情の名も知らず、どうするべきかもわからなかった。ただ、軽蔑すべきこの酔っ払いの優しい目の理由が知りたくて、指先が震えるのだった。 「……僕の記憶の欠陥は知っているだろう? 朝になったら全部忘れてしまう。それなのに、なぜ君はそんな目をするんだ? 君は僕のことが嫌いだっただろう」 「嫌いなものか! ……君は、俺の光なんだ」 雨雲が月と星を隠し、あたりは闇に包まれている。なのに、グランテールは眩しそうに目を細めた。 「今だけだ、忘れてくれて構わない。だから、口づけをしても?」 返事を聞くまえに、雨にぬれた唇がふれた。 グランテールは羽根がふれるように無垢なくちびるをそっと奪った。 初めての口づけに目を瞬かせるアンジョルラスに、グランテールは優しく笑う。 「瞳を閉じてくれるかい?」 帳が降りるのと同時に、くちびるが深く交わった。待ち焦がれていたように、グランテールの唇はアンジョルラスのそれに柔らかく重なり、そっと愛撫し、優しく食む。 初めて受ける口づけは、ブランデーの香りをまとい、アンジョルラスを頭の芯から痺れさせた。心地よいかどうかもわからなかった。ただ唇がこんなに繊細な感覚を持っていることを初めて知った。 優しく舌が絡むのを受けながら、きっとこの瞬間は忘れられないだろうと思った。 アンジョルラスの深刻な問題が解決したのは、その翌日のことだった。 彼はノートに書きとめた記憶をすべて取り戻すことができたのだ。その翌日になっても、夜の記憶は失われず、全て元通りになった。 けれど一つだけ、ノートに書かれていない記憶は戻らなかった。彼はグランテールとの記憶だけをすっかり取りこぼしてしまったのだ。だから、記憶の戻った朝に、なぜグランテールの傘と服が自分の部屋にあったのか、さっぱりわからなかった。本人に訊ねてみたが、曖昧に笑っただけで、何も言わないのだった。 アンジョルラスは彼と交わしたすべてのものを永遠に失った。グランテールのまなざしも、言葉も歌も、忘れないと思った雨の日の口づけも。けれど、彼は記憶が完全になったと思っていたから、これ以上思い出すべきことがあったとは、夢にも思わなかったのだ。 まだ誰も来ていない喫茶店の二階で、アンジョルラスは書き溜めたノートを繰っていた。すると、最後の頁だけがとても短いことに気が付いた。「夜にミュザンに行き、すぐに帰宅した」と、雑な筆跡で記されている。彼は夜の出来事を仔細にわたって残していたので、不自然な余白が引っかかった。 この後に書くべきことがあったのではないか? 彼は記憶の糸を手繰り寄せるが、何も浮かんで来ない。ただ夕方から雨が降っていたことだけが思い出された。 アンジョルラスはノートから視線をあげて、がらんとした部屋を見わたした。 使い古された椅子とテーブル、はがれかけの地図、壁に彫られた落書きの散文詩。 ふと、部屋の最奥の席に目が留まった。古いテーブルには欠けたグラスが置かれ、白い花が無造作に活けられていた。それは酔っ払いの特等席だった。 花びらの千切れたいびつな花。 それをみとめた途端、アンジョルラスの胸はきしんで音を立てた。理由はまったくわからない。思い出そうとしても、彼にはもう叶わなかった。 なぜか、あの懐疑家の真心にふれたような気がした。 街角のあちこちに、あの白い花が咲いている。 それを見るたびに、天使の胸の奥はかすかに切なく痛むのだった。 (2013.04.29) |