不健全な精神は健全な肉体に宿る A





案の定、旅行は過酷なものだった。
2月の北海道は酷寒なのだ。

札幌で雪祭りを見てラーメンを食べ、ススキノには遊びに行けず。旭川まで行って話題の動物園に行き、人ごみにもまれて旭川ラーメンを食べ。ニセコに行ってスキーを楽しむ生徒をラウンジでお汁粉すすりながら眺め、スキー場の安いラーメンを食べ。洞爺湖に行って木刀を買ったり買わなかったりしてまたラーメンを食べた。
生徒たちはあちこちを勝手に走り回り、忘れ物をしたり、スキー場で迷子になったり、店のものを破壊する。そのたび教師陣はあちこち探し回って、説教して、店に謝って回る。
宿泊先でも、毎晩のようにトラブルが起きていた。奴らは例によって時間通りには寝なかった。お決まりのアレである。布団に入って恋バナをしたり枕投げをしたり。そのたびまた怒鳴りこんでは寝かし付ける。おかげで教師陣の就寝時間は深夜2時を過ぎていた。

銀八は心身共もに疲れ切っていた。修学旅行の大変さは十分知っているつもりだったが、まさかここまでとは。就寝時間の見回りの順番が来るまで、銀八は束の間の憩いである入浴時間を過ごしていた。先ほどまで生徒でごった返していた大浴場も、今は静かなものだ。疲れきっていた銀八は、中でも一番大きな浴槽につかり、目を閉じて深くため息をつく。

この恐ろしい旅行も今日が最終日。この夜を耐え切って、全員無事に家に着けば、やっとこの地獄から開放されるのだ。
銀八はゆっくりこの旅行の出来事を思い出していた。たった4日間とは思えないほど、濃い時間だった。沖田が雪山で土方を生き埋めにしたり、神楽が雪祭りの市民雪像をしようもない下品な雪像にに改造したり、猿飛がやっぱり部屋に来ようとするのを必死で防いだり。

ろくでもない思い出がほとんどだったけれど、みんなよく笑っていた。それでいい、と銀八は思う。ろくでもなくたって、後に思い出して笑える思い出を作ることができれば、それに越したことはない。
彼らはこれから将来について悩み、どうにもならない苦しい思いをするだろう。否が応でも大人の汚い世界に染められてしまうかも知れない。そんなとき、ちらりとでも、馬鹿馬鹿しくて楽しい思い出があれば、意外と人はやっていけるんじゃないかと、銀八は思っている。今回の旅がその一つになれば、何も言うことはないのだけれど。
けれど、ひとつだけ。

銀八は、今回の旅行でほとんど桂と言葉を交わしていない。顔すらまともに見ていない。いつもはすぐ雑用を言いつけられる位置にいるのに、気付けば遠くにいる。旅行の前はウザいくらい迫ってきたのに、桂は口も利かないどころか、こちらを見ようともしないのだ。

銀八は自分の思考の矛盾に気付いて、はっとする。
自分から旅行中に接触するな、と言っておきながら、いざその通りにされれば苛立っている。自分の言葉を裏切って桂が来てくれることを期待していたんじゃないのか。

・・・いや、違うから。別に、忙しいだけだから。

銀八は自分で自分にツッコミを入れた後、あわてて風呂からあがった。疲れた頭ではろくな考えが浮かばない。乱暴にわしゃわしゃと髪を乾かし、そのうねった髪を伸ばす努力もそこそこに部屋に向かった。




見回り交代の時間になっても、同室の坂本は帰ってこなかった。
元々きっちりした奴ではないけれど、さっさと休みたいのか、昨日までは時間ぴったりに帰ってきている。何かあったのかと銀八は少々気になった。
生徒が酒飲んだとか、無段外出したとか、エロいことしたとか。
ホテル備え付けの浴衣で見回るわけにも行かず、銀八は仕方なしにくたびれた黒いTシャツとジーンズをひっぱり出し、いつもの銀縁の眼鏡をかけた。
生徒の泊まる部屋は銀八達のフロアより2階下だ。エレベータから降りても、特に騒いでいる様子もない。
そういえば今日のホテルには部屋に鍵がついているのだ。予算がなく、昨日までは修学旅行専用のような、プライベートもへったくれもない宿に生徒を詰め込んでいた。だが最終日くらいは、というなけなしの配慮から、今日は少しだけ上等なホテルだったのだ。

間接照明でほの明るい廊下は、昨日までの悪夢が嘘のように静まり返っている。寝てしまったのか、あるいは部屋でこそこそ何かしているのか。大きくあくびをしながら、長く続く廊下を歩く。絨毯張りの床ではスリッパの足音もしない。
ふと廊下のつきあたりで何か動いた気がして、銀八は目をこらす。よく見ると、そこに誰かがうずくまっていた。

「誰だぁ?もうお子様は寝る時間でしょ〜」

声を掛けると、びくんとその人影が反応し、立ち上がる。
長い黒髪。

「先生」

桂だった。

「・・・何してんの」

「締め出されてしまって」

桂はホテルの浴衣を着ていた。少しまだ髪が湿っている。

「締め出されたって、何、ついにいじめられたのか?」

「ちがいます、」

急に桂は言葉を切り、小さくくしゃみをした。もしかして風呂からあがった後、ずっと締め出されていたのだろうか?

「俺、風呂場に忘れ物をしたのに気づいて、さっき急いで取りに戻ったんです。で、帰ってきたら」

「何で鍵持ってってねーのよ」

「忘れてました」

「・・・お前の部屋、ここ?」

「はい。何度か呼んでみたんですが、誰も答えなくて」

桂は本当に困ったような顔をして、おろおろとまわりを見渡す。

「すみません、これは別に悪ふざけじゃないんです。あの、廊下に正座とか、強制送還は勘弁してください」

「わかってるって。じゃあ他の、」


銀八はその続きを言わなかった。
桂の湿った髪はつやつやとしている。肩の辺りでゆるくひと纏めにされていて、それが妙に視線を誘う。藍色の浴衣は桂らしく隙がないほどきれいに着込まれている。けれど薄い浴衣は、この季節の北海道では少々頼りなく見えた。学ランではわかりにくい桂の肩の細さがはっきりと浮かびあがっている。何度か制服ごしに触れた細い肩。

「先生の部屋、来るか?」

「強制送還は」

自分の言葉を鵜呑みにしたままの桂が愛しく、銀八はふっと笑う。

「ねぇよ、そんなもん」

「・・・はい」

桂が少し目を伏せた。

『お前が不健全にならないようにするためだ』

そう言った自分の声が耳元で聞こえる。
頭ではわかっていたけれど、銀八にはもう引き返すことはできなかった。




続く

どーする、先生。

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