26日 1.




しっとり続く長雨で、週が始まってからずっと傘が手放せない日が続いている。
教室の窓に広がる空は低く垂れ込め、夏至の夕方なのに薄暗い。

梅雨にもかかわらず、相変わらずの長髪をなびかせて颯爽と歩くのは桂だった。
彼とすれ違う女子生徒たちは皆、広がりもうねりもないミラクルな髪を見ては、何のシャンプーを使っているのかといぶかしむ。
衣替えした夏服の白いシャツと、空気中の水分を感じさせない足取り。
十七歳最後の日の彼は、初めてこの道を辿った時よりも随分大人になっていた。

廊下の最奥にある国語準備室は、本棚に積み上げられた大量の書籍で常に薄暗い。もちろんこの季節には、一段としめっぽさが増す。けれど、彼が通った後には清潔な風が流れるようだった。


桂はノックの返事も聞かず、気持ち湿っぽい準備室の扉を引いた。

部屋の奥の人物は、誰が来たのかとっくに知っているようすだった。驚きもせずに珍しくパソコンをつけて、何やら打ち込んでいる。

「今日は何もやることねーから、帰っていいぞ」

銜え煙草のせいで滑舌が悪く、間延びした声。

ほぼ毎週の木曜日、桂は準備室でパシられているが、たまにはこんな日もある。けれど、今日ここに桂が来たのは、別の用事があるからだった。

「先生、今ちょっといいですか」

「よくない」

「単刀直入に言わせてもらうんですけど」

「人の話を聞きなさいっつの」

銀八がエンターキーをひときわ強く打って、ようやく苛立った顔を上げる。

「なんだ?」

「忙しいなら、ちょっと待ちます」

「っだァァ!!ケンカ売ってんのかコノヤロー!」

かみ合わない会話に銀八がキレて、手にしていた資料を机にたたきつけた。空気を読むことを知らない桂は、全く気にすることなく続ける。

「じゃあ言います。俺、明日誕生日なんです」

「…へぇ、そーなの」

銀八は話題が興味のないものだと知ると、あっさりパソコンの画面に戻ってしまった。何度も短くなってきた煙草を吸っている。

「ということで、誕生日プレゼントをください」

「おーい、こんなに図々しく強請る奴、初めて見たんですけど?」

「別に、車やマンションとは言いませんから」

「どこのセレブだお前は」

「先生の家に連れて行ってください」

キーボードを打つよどみない音が止む。ややあって、銀八は画面を見つめたま深く煙を吐いた。

「先生、前に「お前が十八になったら家に招待して蕎麦を打ってやる」って言いましたよね」

「…ケーキだよ、蕎麦じゃなくて」

「そういうことなんで、ひとつ、よろしくお願いします」

「…要は蕎麦とケーキ食えりゃいいんだろ?」

「いえ、もちろん性交渉もしたいです。あとケーキはいりません」

「性交渉、ってお前…」

銀八はため息とともに煙草を灰皿に押し付ける。そして顎に手をやり少し考え込んだ後、桂を振り返りもせずに口を開いた。

「…何て言ってほしい?」

「はい?」

「俺に何て返事してほしいの?」

銀八の口元が意地悪そうに上がっているのを確認した桂は、かっと頭に血が上った。
馬鹿にされているのか。

「わかりました、もういいですっ」

桂は修学旅行の時から、銀八の言葉を信じていたというのに、この男は端から嘘をついていて、反応を楽しんでいたのだ。
銀八は十も年上だ。それだけに、桂と違って余裕があるのだ。桂は関係強化に必死だったというのに、全部この男の手のひらで遊ばれていただけなのだ。
その事実に、桂は物凄く腹を立てた。そのくせこの男が嫌いになれないことに我慢できないほどの羞恥を感じ、顔を真っ赤にして肩を震わせ踵を返す。

「もう知りません!絶交です、2ヶ月、・・・いえ一ヶ月の絶交ですっ」

「ちょ、待て待て待て!!」

桂が大またで部屋を出ようとすると、銀八が慌てたように引き止めた。

「何ですかっ」

半ギレの桂が振り向くと、銀八はきまり悪そうに銀の癖毛を掻いた。

「お前の考えてることはわかってるって。…ただ、お前もわかんだろ、なんつーの、アレだよアレ」

「アレってどれですか」

「要はアレ…言いたかねぇけど、つまり、立場…的な?」

「禁断の関係ってことですか」

「やめてくんない、その言い方やめてくんない」

「そんなこと、今更でしょうが!」

桂はさらに苛々と吐き捨てた。
立場的なアレがあるからこそ桂が焦っているというのに、この男は何もわかっていない。立場を気にするなんて、さぞ余裕があるのだろう。十年間の温度差が歯がゆくて仕方ない。

「俺だって色々考えたワケよ。お前は卑怯つーかもしんないけど、そんな簡単に行く問題じゃねんだよ」

余裕ある大人の銀八は、桂を宥めるようにちょっと笑う。その表情がまた桂の神経を逆撫でた。

「お前がどこまで本気で覚悟してるか、最終確認したいワケ。…ってことで、俺がわざわざ選んでやったプレゼントとお前のご希望、どっちか片方をやるから、選びなさい」

銀八は机の抽斗をあけ、小さなビニールの包みを取り出した。
カラフルで小さな包みを節のある指でつまんだ銀八は、軋みをたてて椅子から立ち上がり、サンダルを鳴らして桂の目の前に立つ。
つままれたビニールの中身は、「大岩井ミルクといちご」ペットボトルについてくる、期間限定「エリザベストラップ(全5種)」だった。

「エリザベス…っ!」

プレゼントというにはあまりに手抜きだというのに、桂は先ほどの怒りを忘れて釘付けになった。可愛いエリザベスが様々なスポーツをしているという設定のもので、桂はその中でもスキューバダイビングエリーが一番可愛いと思っていた。大きな水中ゴーグルと水かきがピンク色なのが気に入っている。そして銀八の手のエリザベスは、大きなゴーグルとピンクの水かきをつけていた。

「こいつと俺と、どっちがほしい?」

銀八がいつもと違う色を含んだ視線で桂をとらえる。その横で揺れる、エリザベストラップ。
先ほどまでの強烈な怒りは、すでに吹き飛んでいる。その代わりに桂を支配するのは、ふたつの甘い誘惑だ。

「…」

「おまっ、そこで悩んでんじゃねーよ!俺はペンギン以下かっ」

目を輝かせながら真剣に悩む桂を見て、銀八が即座にその頭をぶっ叩く。けれど桂は痛みも感じていない様子で、先ほどとは違った感情で頬を染める。

「ちょっと、これはかなり迷います…。あの、両方っていう選択肢は」

「ナシっ!なんかムカつくからナシ!」

桂は何度も口惜しそうにストラップを見つめてから、決心したように銀八の視線を受けた。

「じゃあ、先生をください」

「…いいのかよ?」

髪に指先だけで触れながら、銀八は初めて桂を口説いた台詞を繰り返す。

「望むところです」

銀八がエリザベストラップをみかん箱に放り投げる。ストラップは綺麗な軌跡を描き、乾いた音を立てて箱に収まった。

それを惜しいと頭の隅で考えながらも、桂はもう銀八の渇いたくちびるに夢中になっていた。






続く


 


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