諦観 一. 年頃になって、銀時もすっかりこの土地に馴れた。 大人達からの扱いはまだ良くなかったけれど、塾の子供たちはもう銀時の髪も目も珍しがらない。 その年の春は遅く、卯月に入って五日も過ぎた頃、ようやっと桜がほころび始めた。塾での朝稽古が楽になったなと、塾生たちは喜んでいた。 そのうち一人の妹が、花を飾りたい、と摘んできた黄色い花が教室に飾ってある。 名もわからぬその花を、粗末ではあるが花瓶に生けてやったのは桂だった。 その様子を見た高杉が、女みてぇだ、とからかったので、二人は掴み合いになった。2つ年下の高杉が桂にかなうわけがない。桂は手加減しつつも(銀時にはそう見えた)、高杉を組み伏せた。桂はそこで勘弁してやろうとしたのだろうが、「あの女とお似合いだ」とさらにふっかけたので、高杉はそこからヘッドロックをかけられた。それで奴は昨日からずっと機嫌が悪い。 松陽がいないことも、関係しているのかもしれなかったけれど。 年明け早々松陽が江戸に遊説に行ってから、こんな風に何とはなしに皆の空気が違っている。教室でも、稽古場でも、常に誰かがいらだっているような、落ち着きのなさ。上級の桂だけが、それをなんとか振り払おうと、常に背をまっすぐ伸ばしていた。 春は心地良い眠りを誘う。 『春眠不覚暁』、漢詩はからっきしの銀時が唯一共感できる詩だ。 授業のひけた教室で、銀時はうつらうつら惰眠をむさぼっている。銀時は夢うつつの中をさまようのが好きだった。昔から授業の最中でも、お偉い人の話の最中でも、ちょっと目を離すとすぐに舟をこいでいるような子供だった。大またで歩いてくる足音が聞こえても、起きるのが面倒なのか一向に目を開けない。 「銀時!」 乾いた音をたて、勢いよく襖を開け放ったのは桂だった。高い位置に結い上げられた髪の先が揺れる。名を怒鳴りつけても起きない銀時に、桂ははしたなく舌打ちをした。 「起きろ、この怠け者が!」 上から思い切り拳骨を食らわされて、初めて銀時は目を開ける。 「ってぇ!いきなり何しやがんだテメーは!」 「いきなりだと?!さっきから何度も呼んでいるのが聞こえなかったか貴様ァ!今日は庭の掃除の当番だろうが!」 桂は大人しそうな見た目とはうらはらに、とんでもなく厳しいことで有名だった。普段は仏のように優しく面倒見が良いが、遅刻やずる休みには殊の外うるさいのだ。 「あーそうなの?忘れてた」 銀時は手馴れたもので、毎回こうして桂を軽くいなす。 あくびをしながら両腕を思い切り天へ突き出し、背中を伸ばす。そのまま桂に伸ばした手を差し出した。 「ん」 「ん、って何だ」 「だーからァ、起こして」 銀時が顔をくしゃくしゃにさせて笑った。間の抜けたその顔を見るなり桂はあからさまに不快な顔を作る。 「どうしてそうなる、自分で起きろ、馬鹿者」 差し出された手を振り払おうとした桂の手のひらは、銀時に掴まれた。 そのままぐっと力を入れて立ち上がり、すぐに手を解く。桂は反動でふらついた。 「どこだっけ?掃除」 「・・・庭だ。貴様がいつまでたっても来ないから、もう粗方やってしまったぞ」 銀時が悪びれない様子で適当に謝まると、桂は「次やったら一週間ひとりで厠掃除だ」と言いつけた。 連れ立って少し冷え始めた廊下を歩く。はだしの銀時は足を縮こまらせた。 「まだちょっと寒ィのな」 「そんな格好をしているからだ。そんなに薄着で・・・貴様、足袋はどうした」 「知らねえ」 「春とはいえ、まだ朝晩は冷えるだろう。お前、確か去年の春も薄着でうろちょろして、結局病気で寝込んでいたではないか。あのときの」 「あーーもう、うるせぇ!その話はするんじゃねぇ!」 「貴様のことだから、どうせ拾い食いでもしたんだろう。胃が空になるまで吐いたと聞いたぞ」 「だーからその話はやめろって!」 庭に出ると、まだ下級の塾生が何人か残っていた。子供たちは桂と銀時を一瞬強い憧れのまなざしで見つめてから、きりりと表情を結びなおして挨拶する。 二人はもうこの塾では最上級といっても差し支えなかった。今年、二人は数えで十五歳、もう大人の仲間入りをするころだ。 本当は掃除など下級生にやらせれば良い。けれど二人がそれをしないのは、無駄な縦割りを塾に持ち込まない、という松陽の考えと、自分たちの学び舎に対する感謝の念を現したい、という桂の希望からだった。 掃除道具を片付け、井戸に流れ込む雪解け水で雑巾を濯ぐ。桂の指先が冷えて真っ赤になっていた。 「銀時、今日の飯はどうする」 「あ?・・・テキトーになんか食うよ。麦飯あっから」 そう言ってぎゅっとかたく雑巾を絞った銀時の指も、かじかんで赤くなっている。桂はその銀時の指先を見つめている。 「銀時、今日はうちに来い」 「なんで?・・いいって気ィつかわなくて」 「そうではない。・・・今日は、姉上が来るのだ」 桂には年の離れた姉が二人いた。すでに嫁いでいるのだが、嫁ぎ先が近いので、こうして時々遊びに来るのだ。 「へぇ?良かったじゃん。尚更俺は行けねぇよ」 「いや、だからこそ来てほしいんだ。・・・知っているだろう、姉の悪趣味な遊びのことを」 「アレだろ?こすぷれ、ってやつだろ?楽しそーじゃん、女の着物とか着んだっけ?」 「だからそれがいやなのだ!俺ももう今年元服なのだぞ?!それなのにあんな格好・・・・!」 桂は赤くなったり青くなったりして捲くし立てた後、雑巾を絞る手を止めて神妙な顔を銀時に向けた。 「銀時、頼む!助けてくれ。お前がいれば、こすぷれとやらに付き合わされずに済むと思うのだ」 「・・・そりゃ別に、いいけど。でもいいのか?俺みたいのが行っても」 本当は、俺なんかお前に話しかけてもいい身分じゃないのに。 銀時は心持ち自嘲気味に笑って見せた。 常に心のどこかでそう思っていた。 塾では全てが許されているし、桂の家はあまり気にしていないようだけれど、高杉などは、その屋敷の前を歩くのもはばかられる。しかし本来はそれが正しい姿なのだ。 桂は一瞬、何を言われたのかわからぬというように、ぽかんと口を開け、その後、眉間に皺を寄せた。 「貴様、うちの飯が食えないとでも言うのか?!」 「はァ?イヤ、そうじゃなくて」 「じゃあ何だ?!言っておくがな、うちの飯をマズいなどと抜かしてみろ、俺が許さんぞ!」 「いや、わかってるって、旨いって」 「ならば文句ないだろう!今日一日俺に付き合ってもらうかわりに、うちの飯を食わせてやる。ほかに不満はあるか?!」 「いや、ないって・・・。もーいいよわかったから。行けばいいんだろ?」 「さすが銀時!恩に着るぞ!だがこれで貸し借り無しだな」 先に頼みごとをしてきたのは桂なのに、銀時がうなずいた途端に不敵な笑みを浮かべた。 「アァ?貸しだろ貸し!今日は俺がわざわざ行ってやるんだからさ。あーあ、せっかくドラゴンボーズ一人で読もうと思ってたのになァ?」 「何を言うか貴様、さっきの掃除分の貸しがあるだろうが!・・・そういえばドラゴンボーズ、いつ続きを貸してくれるんだ?」 「明日持ってきてやるよ。ただしこれで俺が一個貸しな」 「・・・いいだろう。忘れるなよ貴様」 「わーってるって」 それを聞いて桂は、それはそれは嬉しそうな顔をした。 銀時はその笑顔を正面から見ることができない。 こうして少しずつ、他愛ない日常の中で彼の中に降り積もっていくものがある。 まだ輪郭をはっきりとなさない、複雑な何か。それを考えるといつも胸が痛むので、銀時はもうずっとそれを無視し続けている。 それはいつか、あきらめなければならない感情だということを、銀時はよく知っていたのだ。 つづく |